第209回 昭和回想録その22 〜虫と過ごした日々〜
夏が終わり秋にかかると何となくもの寂しく、井上陽水の少年時代「♪な~つがす~ぎ かぜあざみ わたしのこころはなつもよ~う ♫」が流れたりすると、余計に郷愁がかきたてられ昭和30年代の小学生時代を思いだす。
令和の時代、虫というと毛嫌いする人が多いかもしれないが、昭和の時代の子供たちにとって虫は身の周りのどこにでもいる遊び相手であり仲間でもあり、時には少し厄介な存在でもあった。
小学校の夏休みの自由研究に昆虫採集は定番であり、どこの文房具屋でも昆虫採集セットを買うことができ、100円から200円くらいなので一銭店屋にも置いてあった。
セットの内容は、虫メガネと注射器それに虫を殺す赤と保存する緑の液体が入っていた小瓶が最低限のアイテムで、少し値が高いものになるとピンセットや殺虫管も付いている。
注射器と一緒に毒液も付いているので、今であればこわい母親軍団が白目をむき、泡を吹いてしまうというシロモノが、どこにでも平気で売られていた。
当時の男子小学生のほとんどはそのセットを一度は持っていたはずで、私も注射器を手にすると何となく医者にでもなったようで気持ちが高揚したものだ。
しかし、実際にセミやトンボやカブトムシなどを捕まえて、注射器で標本を作るのは自分としては得意な作業ではなく、虫たちを観察するのは好きだがそれをモノのように扱うのは、あまり気が進まなかったので途中でやめてしまった。
友だちがトンボの尻に枝を差し込み糸を付けて飛ばしたり、足の長いクモの足をもぎ取りそれが動くのを見て喜んだりするのを、横目で見ていたこともあった。
小学生の頃は夏になると広瀬川に行き、川底の石をひっくり返し魚や虫を追いかけたりたりしたら、遊んだ後に河原に上がると足首やふくらはぎにヒルが何匹か吸い付いていて、引っぺがしながら大騒ぎをしたこともあった。
後で分かったことだが日本では水田や近くの川に住んでいるチスイヒルと違い、河川のヒルは血を吸うことはないのでもっとやさしく扱えばよかったかもしれない。
伊達家の菩提寺があった高さ120メートルの大年寺山も行動範囲にあったので、小学生から中学生の頃にかけて数え切れないほど遊び廻った。
道なき道を分け入りアケビや山ブドウを探しながら行くと、シマヘビやヤマカガシ、トカゲ、イモリなどと時々遭遇することがあり、ムササビも何度か見たこともあった。
私はどちらかというと爬虫類のほうが魚よりも好きなほうなので、捕まえたりすると蛇のピロピロ出す舌を眺めたり、トカゲの腹のぷよぷよ感を楽しんだりして可愛がり、その後は必ず逃がしてやった。
秋になり山に入るとカマキリの卵を見つけることがあり、それは黄土色の発泡スチロールの泡のようなもので木の枝に引っ付いていて、それを持ち帰り容器に入れて置いていたことがあった。
春になりすっかり忘れていたその容器を玄関の隅で見つけたら、その中では大人のカマキリのミニチュアのような姿の子供たちが、100匹以上ワサワサとうごめいているのを見て仰天したのを憶えている。
夏休みになると母の実家である田舎に行くことがあり、そこには7人もの従妹たちがいて、歳の近い子たちと遊ぶ材料に事欠かなかった。
イナゴ狩りもしたことがあり捕まえた後に何十匹もビニール袋に入れ次の日に見たら、みんな黒い汁を出して死んでいたのはショックだった。
田舎では蚕を飼っていたので、夜中に母屋から離れた便所に行く時には蚕棚を並べてある部屋を必ず通るが、そこでは夜中でも蚕がエサを食べるシャカシャカという不気味な音がいつも聞こえていた。
抜き足差し足で歩くのだが、蚕棚から脱走した蚕を踏みつぶしてしまうことがあり、次の日には懺悔のために別の蚕を取り上げて「お子さま、昨日はごめんな。」とそのつぶらな顔を見て謝ったこともあった。当時、田舎では蚕のことを「お子さま」と呼んでいた。
田舎では夜になると蛍狩りに行き、寝る時に蚊帳の中に蛍たちを放してその飛び廻る灯りを見ながら眠りについたことも何度かあったが、翌朝にはなぜか蛍はいなくなっていた。
何でもある今の時代の子供達、彼らは私たちが過ごした昭和の時代のような虫に囲まれた時間を、大人になってから思い返すことはないのだなと考えると、少しかわいそうな気がしてしまう。