第194回 昭和回想録その20 〜一人暮らし〜
昭和時代の真ん中は単身世帯が全世帯の10分の1もなかったそうだが、現在は1500万世帯もあり全世帯の30%位になり、さらに高齢者の単独世帯が急激に増え2025年には2000万世帯になるという。
しかし、昭和の時代は圧倒的に高齢者よりも若者の一人暮らしが多く、私も昭和40年代後半に2年間だけ栃木県宇都宮市で一人暮らしをしたことがあった。
当時は工作機械商社に勤務しており、東京本社から営業所に転勤になり街の中心部から少し離れた住宅地にあるアパートに住むことになった。
アパートといっても今のような小洒落た建物ではなく、漫画家の原点といわれるトキワ荘のような木造の古い建物であったが、家賃は8千円と当時でも格安なので満足であった。
1階は面倒見の良さそうな家主のお婆さんが1人でやっている食堂があり、朝食の献立は実家で出されるのと同じような総菜なので飽きることなく食べることができた。
アパートの2階の自分の部屋の出入り口は半畳ほどのスペース、そこにはガスコンロとようやく茶碗が洗えるような広さの流しがあり、靴を置ける場所と混在していた。
部屋は6畳で 風呂便所なし、便所は廊下の突き当りに共同のものがあり、洗濯は洗濯機がないので便所の側にある流し場で洗濯板を使いゴシゴシ洗ったものだ。
部屋の中には、ハンガーラックと小さなちゃぶ台はあるが、テレビ、冷蔵庫は置いておらずエアコンどころか石油ストーブもおいてなかった。
宇都宮は底冷えするのでこたつにもぐりながら、真冬はミニ台所の1台だけのガスコンロの火力を調整し、空焚きしながら暖をとった。
若かったせいか近くの銭湯に行き、布団をかぶれば寒くて寝られないということはほとんどなかった。
目的があったので貯金には手を付けないことにしていたので、手元の現金が少なくなるとカップ麺や醤油かけご飯でしのいでいた。
ある日まったくお金が底をついたので質屋という所に初めて入り、時計を預けたこともあったが1か月後には無事流さずに回収することができた。
アパートに入ってから半年ほど経った頃、知り合いからモフモフした白いモルモットを譲られ室内で飼うことにした。
いつも口を動かしていたのでモグちゃんと名付け、出かける時にはカゴに入れ帰ってきたら出してやると、チョコチョコと部屋中を歩き廻っていた。
そのうちに慣れてきて名前を呼ぶと来るようになり、手乗りモルモットになった。
1年半ほどして会社を辞めることになった時に、動物が好きそうな知り合いに引き取ってもらうことになり、生まれて初めて別れの辛さを味わった。
仕事ではいつも会社の営業車を運転していたので、休みの時には原付バイクで出かけることもあった。
ある日に日光の中禅寺湖まで行こうと思い立ち、愛車のダックスホンダにまたがり50キロメートル先の目的地を目指してツーリングを開始した。
我が愛車はスピードが出ないし49ccと馬力もないうえ、道中は坂が多く特に難所の「いろは坂」では歩くと変わらないような速度になり、歩きながら引いて登らなくなるのではと思ったほどだったが何とか坂の頂上まで辿り着くことができた。
中禅寺湖近くの華厳の滝も見物し、宇都宮にいる間に県内の観光地や名所を訪れたのはこの日帰りの旅が最初で最後であった。
営業所の所長には「君の業務の範囲は栃木県の西の方と隣接した群馬県、場合によっては茨城県や東北方面もあるからね。」と言われ、たまに所長に同行し既存の得意先に行くこともあったが、仕事はほとんどが飛び込みの営業だった。
社有車のライトバンで毎日100キロ前後運転し、1日に製造業の中小企業を10軒訪問という目標を自分で立てしらみつぶしに廻った。
もちろん新米社員なので半年ほどはあまり成果が出ずに、初対面のある会社の社長に目の前で名刺を捨てられ悔しくてその会社の裏に廻り塀に小便をかけたことや、1カ月間全く引き合いが無くて河原の土手で、流れる雲を見ながらふて寝したこともあった。
アパートの部屋は何もなく殺風景だったこともあり、学生のように模造紙に仕事で使うカタログの資料などを書き写し天井に張り付けて毎晩眺めていた。
その内、少しずつ仕事の知識も覚えてきて営業の要領もわかってきたせいか契約が取れるようになり、2回目の夏のボーナスは会社の業績も良かったのか月給の5倍も出てしまった。
見たこともない現金に狂喜乱舞し後輩を誘い飲み歩き、一晩で1ヶ月分ものお金を散在してしまい、翌日から日光猿軍団のように反省の日々を過ごしたこともあった。
盆と年末には国道4号線を250km北上し車で仙台に里帰りをしたが、まだその頃は東北自動車道が一部しか開通しておらず、帰郷ピーク時も重なりいつも8時間近くかかっていた。ちなみに宇都宮・仙台間の東北自動車道は1975年に開通であった。
冬には今よりも雪が多く栃木県と福島県の県境は大渋滞し、ほとんど車が進まなくなる時もあり20時間近くかかったこともあった。
前日の昼から出発し夜が明ける頃に県内に入るとほっとしたのを今でもよく覚えている。
2年間だけではあったが、1人暮らしの月日はその何倍ものいろいろな経験を積んだような気がして、半世紀近く経った今でも当時のことがいくらでも浮かんでくる。
時々飲みに行っていたショットバーに宇都宮を出ていく前日に別れの挨拶に行った。
そこはマスターが1人でやっているカウンターメインの小さな酒場で、暗い狭いきれいでないからか落ち着け、足がとどきにくい椅子に座りながら冷えたジンにレモンを入れて飲むのが好きだった。
「今日でここに来るのが最後です。」「三浦君も元気でな。」「いつかまた寄らせてもらいます。」とやり取りしてからはその後一度も訪れることはなかった。
20代の数ページ、一人暮らしのあの時代に縁のあった人々はほとんどが私よりも年長者、どれだけの方がまだ元気だろうかと考えると少しセンチになってしまうのである。