第191回 パラオよもやま話し 〜東北にもある南の国〜

第191回 パラオよもやま話し 〜東北にもある南の国〜

 先月に会社の太陽光発電所敷地の雑草取りをしていたら、地面に張っている蔦があまりにも多くてそれを抜くのに大汗をかいてしまいました。

 汗をぬぐいながら頭に浮かんだのが北海道を開発した屯田兵、そして宮城県のある開拓地のことでした。

 

 その地は蔵王町遠刈田温泉北原尾(きたはらお)、この地名の由来は南太平洋にある楽園のようなパラオ共和国なのです。

 太平洋戦争後にパラオに住んでいた一部の日本人が、引き揚げ先に選ばれて入植したのが宮城県蔵王山麓の国有林でした。

 1946年に32戸の入植者による開拓は熾烈を極めた苦労の連続だったそうですが、彼らは敗戦により離れざるを得なかった南のパラオを懐かしみ、北の原っぱをもじって北のパラオ、そして北原尾と名付けたということです。

 現在ではその原野は県内でも有数の酪農地帯となって、蔵王町の発展になくてはならない地域になっています。

 

 この「北パラオ」から本家のパラオと縁がつながり、現在までに様々な交流が盛んに行われているようで、2001年にはパラオ共和国のトミー大統領が蔵王町を訪れました。

 

 その前の第6代大統領のクニオ・ナカムラ氏が在任期間中に訪問を熱望していたそうですが、その役割は次の大統領が叶えたようです。

 そのクニオ・ナカムラ氏(中村國雄)は三重県出身の父とパラオ人の母を持つ日系2世で、上院議員や大統領を経て1993年に大統領就任して2001年まで8年間務めました。

 中村氏は大統領を引退したあと北のパラオを訪れることはなかったようですが、来日は度々しており講演やテレビに出演して両国の親善に尽くしましたが、残念ながら今年の10月14日に76歳で死去されました。

 

 そして2014 年には、パラオ共和国のマツタロウ大使が蔵王町を訪れていました。

 「マツタロウ」という名に漫画家ちばてつや氏の「のたり松太郎」を連想してしまい、更にトミー大統領の名前から主人公の松太郎の母親がトミだったこともあり、すっかり名前と思っていました。

 ところがマツタロウは名前ではなく名字であり、本名はフランシス・マリウル・マツタロウということを後日に知り少し驚きました。

 

 パラオは第1次世界大戦後にドイツの支配から日本の委任統治領になったあと、太平洋戦争前の1930年代には2万人以上も日本人が暮らすようになり、パイナップルやサトウキビの栽培をしていたそうです。

 ドイツの統治していた時代とはと違い、日本人は現地の人たちと協調して生活をしていたために親日家が増えて、戦後に米国の統治になり名字が必要になった時に日本語から付ける人が少なからずあったそうです。

 その中には「ヤマグチサン」や「イチカワサン」という名字や「オバサン」というものまであり、名前にも日本名が多く名付けられたのです。

 日常使われる言葉では「ダイジョーブ(大丈夫)」が頻繁に使われており、「ツカレナオース(お疲れさま)」、「クルスィー(苦しい)」、「エモンカケ(ハンガー)」などもあり、乾杯の時にはグラスがぶつかるので「ショトッツ!(衝突)」や日本では禁句?になった「チチバンド」という言葉も残っているのだから面白いですね。

 これらの例のように当地では日本語が数多く浸透しており、パラオ語の2割以上は日本語からきているという説もあるようです。

 

 さらにパラオのコロール島からペリリュー島に渡る数百の島々はロックアイランドとして世界遺産にも指定されている海域で、日本統治時代には日本三景松島にあやかり「パラオ松島」とも呼ばれていたそうなので、我が郷土宮城県は「北原尾」とともに縁があるのだなあと思った次第です。

 ペリリュー島では 戦争中に1 万人以上の日本兵が玉砕したという悲惨な歴史がありますが、戦後はその常夏の島々には観光客がたくさん訪れてビーチリゾートやフィッシングやダイビングなどでにぎわっています。

 

 パラオ共和国にはコロナ禍がおさまったら是非とも一度は訪れて、マツタロウさんやヤマグチサンさんと一緒に冷えたビールを「ショトッツ!」といいながら飲んでみたいものです。