第189回 維吾爾追想 ~ウイグル人との出会いとその後~

第189回 維吾爾追想 〜ウイグル人との出会いとその後〜

 黄土色の砂塵を巻き上げてひた走るバスの中に、異国情緒たっぷりの少ししゃがれてはいるが穏やかな歌声が心地よい。

 場所は新疆維吾爾(ウイグル)自治区のウルムチからトルファンへと向かう乾燥しきった砂漠の中の一本道、日本とはまったく異世界の褐色の茫々たる景色が窓の外を流れていく。

 歌声の主はレア(仮名)という女子大学生、新疆大学在学中でツアー臨時のアルバイト通訳で、「ウイグルの歌を是非歌ってほしい」とのツアー客の要望にためらいながらも歌い始めたのである。

 

 ウルムチから180km先の目的地であるトルファン周辺には、紀元前に建造された交河故城や年代が少し後になる玄奘三蔵も訪れた高昌故城、そしてウイグル王国のベゼクリク千仏洞、地表温度が90度にもなるという火焔山など、シルクロードの古代遺跡や自然が目白押しである。

 

 このツアーの3年後に彼女が日本の会社で働くことになるとは、暑さと乾燥した空気で朦朧としながら旅をしていた当時の私は夢にも思わなかった。

 

 大学では工学系の学部に所属していたレアからメールの便りが届いたのはその半年後で、「今は北京大学にいて日本語に磨きをかけている」という内容であった。

 工学部を卒業したが日本が好きで在学中から日本語を勉強し、その後に北京大学で聴講しながら日本語検定の最上級N1の資格を取ったという。

 何度かメールや電話でやりとりをしているうちに、まだ就職先を決めていないということが分かり、私は気軽に「うちの会社に入ってみる気がある?」と訊いてみたら「是非入りたい!」との返信、そういった経緯もあり入社に向けての準備をすることになった。

 

 レアは母国のウイグル語はもちろん北京語も話せ、日本語は会話をしていても外国人特有の訛りもほとんどなく、書くことも全く問題がない。

 大学は化学系の学科で中国語と日本語も流暢なので、会社が中国関係の仕事も少ししていることもあり、将来に事業の橋渡しもできるかもしれないので入社させることにしたのが10数年前のことである。

 外国人が大学を卒業したからといって、ストレートに日本の会社に入れることはできないので、大学の教授にお願いし研究室に1年間研究生として勉強させることにした。

 入管でビザを取得するための諸々の手続きはだいぶ面倒だったが、なんとか乗り切ることができた。

 必要な書類は教授からの研究生として受け入れる文書や新彊大学の卒業証書、戸籍証書、パスポート、会社からの住居や生活費の支援保証証明書などなどである。

 その準備をしていて驚いたのは、戸籍証書とパスポートの生年月日が一致しないことがあり、本人に尋ねたら曰く「ウイグルでは生まれてすぐに届けない場合があるので、正確にいつ生まれたのかがあいまいなのは珍しくないのです。」とのこと。

 

 そういった問題もなんとか克服し、遠いシルクロードの国からレアが仙台駅に降り立ったのはウイグルで出会ってから2年後であった。

 彼女はリュックを担ぎ両手にたくさんの荷物を持ってニコニコしながら、「お久しぶりです」と流ちょうに挨拶をした。

 片手に持っていたパンパンのビニール袋にはなんとナンが目いっぱい入っていたのだ。

 ナンといってもインド料理で出すようなものではなく、30㎝位の丸くて少し厚めでパンを圧縮したようなかための生地で、結構長期保存できるものである。

 「母が食べるものに困らないようにと持たせてくれたの」とウイグルから数千キロの距離を運んできたナンを取り出しながら、少し恥ずかしそうに話していた。

 私への土産はウイグル名産の干しブドウとなにかの木の実がどっさり、ただ1カ月位したら木の実から得体のしれない虫が湧いてきたので、本人に内緒で捨ててしまったのだが・・

 

 仙台では我が家とホテルに滞在し、大学入学の準備を進め1か月後に隣県の国立大学工学部のある研究生として送り出すことができた。

 

 一緒に暮らしていて時に戸惑ったのは、彼女はイスラム教なので食べ物の制限が多いこと、例えばカレーライスを食べた後に豚肉が入っていたということが分かり大騒ぎしたことや、カップ麺のどん兵衛の原料表示に「豚エキス」というのを見つけ、顔をしかめていたこともあった。

 ただし仙台でも超高級食材牛タンは大のお気に入りで、その後に仙台を離れ数年後に再会した時などもムシャムシャとレディーらしからぬ食べっぷりだったことも思いだす。

 

 大学の研究生として在学していた頃はいつも同世代と一緒であり、プレッシャーもほとんどなく、住んでいた街にはウイグル人も何人かいたらしく、同郷の言葉も話せて順調に生活をしていたようだった。

 「先生や仲間との初詣に神社に行った時に、私はイスラム経なので参拝はしなかったの」など日々生活の様子も定期的に連絡をよこし特に問題はなかった。

 

 やがて大学に入ってから1年が経ちビザも「就労」となり、翌年の4月に会社に入社することができた。

会社の花見や社内旅行や忘年会にも積極的に参加し、日本の生活にも馴染むようになってきたと思われた3年目にかかる頃に突然退社することになった。

 ある家庭の事情が起きてしまい、どうしても帰国せざるを得なくなり、本人には「こういうチャンスをいただいたのに本当にすみません」と大変に恐縮していた。

 

 それから数年後の東日本大震災を挟んで彼女は再び日本に滞在していた時に、一度仙台を訪れ再会したのが最後になった。

 

 その後にウイグルで結婚したとのメールが、幸せそうな顔をしたレアと花婿とのツーショットの写真を添付して送られてきた。

 5年前には子供が生まれたとの連絡もあり、良い人生を送っているのだなあと思っていたら、中国からウイグル人への圧政が次第に強くなってきたという情報が頻繁に出始めてくるようになった。

 

 この頃を境にフェイスブックやメールでの連絡が途絶えてしまい、今は全くどのようにしているのか知る由もなく、彼女の故郷で何が起こっているのかテレビや新聞のニュースを見るたびに気にかかっていた。

 最近は昔の撮りためた写真を整理することが多くなり、15年前にウイグルの地で撮った画像を見ていると、あの悠久の大地でいつも笑みを絶やさないレイの顔を、再び見ることができる日が来るのだろうかと思ってしまうのである。