第188回 乱読三昧レビュー2冊 〜「鬼滅の刃」に負けない本もあるのだ!〜

第188回 乱読三昧レビュー2冊 〜「鬼滅の刃」に負けない本もあるのだ!〜

 映画「鬼滅の刃 無限列車編」が上映され、3日間で342万人の観客、46億円を超える記録的な興行収入とのことで、「なんじゃい、それは?」と驚いている人も多いのではないでしょうか?ただ検索サイトでは「き」と入れただけで「鬼滅の刃」がでてくるほどに当たり前なのです。

 私は映画をまだ見ておりませんが、実はテレビアニメはエピソード26まで全部観たのです。さらにコミック本は21巻まで読破しており、あと未発売を含む最終巻まで残り2冊までと迫っているのです。

 種を明かしますと、コロナ自粛期間中に若い知人に勧められその存在を知り、ネットテレビで観た後に彼からコミック本も借りて読んだのです。

 私の脳みその海馬が傷んできたせいか読後感は「面白かった」のですが、暑い時にビールをゴクゴク飲んで「アーうまかった!」と同じような感覚を持ったのでした。

 ただコミックをこんなに一気に読んだのは初めてだったので、良い経験だったとは思っております。

 

 本を読むのも好きですが、私の場合は読む分野というものにこだわりがなく、何でもありのよく言えばオールマイティー、実際はただの乱読なのです。

 もともとは新聞や雑誌の書評や本屋に行って目についたものを選んだりしますので、面白そうであればどういうジャンルでもOK牧場なのです。

 その為かまだ読まずにストックしている本が、十数冊そして併読している本が7冊ベッドの頭の上に置いてあります。

 それでも読み終えた本の中に「これは人にも読んで欲しい」という「鬼滅の刃」にも負けない本が何冊もありますのでその中の2冊を今回はご紹介します。

 

 

「ジャンヌ」河合莞爾著

 ロボットもの、いわゆるAIやサイボーグやヒューマノイドなどを含むこの手の映画や書籍類は大好物で、鉄腕アトムやエイトマンや鉄人28号などから出発した私のロボ人生に、映画「AI」を観て感動した以来の軌跡を残した一冊が「ジャンヌ」である。

 物語の舞台は人口が5千万人になってしまった2060年代の日本、ロボットが日常生活に欠かせない存在となっている近未来である。

 SF作家の大御所アイザックアシモフの小説にある「ロボットは人間に危害を加えてはならない」という「ロボット工学3原則」が、改変不能の機能としてすべてのロボットに装着されていた。

 ところがそのジャンヌという家事用人間型ロボットが主人を殺害し、風呂場でその死体を洗っていたのだ。人間を絶対に殺すことはできないはずのロボット、それを解明するために科捜研で綿密な検査をしてもバグが見つからない。

 そこで主人公の刑事は、政府や警察やロボット製造会社の意向を受け、メーカーの本社のある仙台までジャンヌを護送することになるが、その途中に謎の武装集団に襲撃される。

 なぜジャンヌは人間を殺したのか、襲ってきた武装集団の目的は、人口急減した日本はどうなっているのか、そして主人公とジャンヌの掛け合いもあり、途中で読むのをやめられない展開が続き物語は進んでいく。

 エンディングに近くなると、ジャンヌの人間よりも人間らしいその行動が明らかになってきて、読み終わった後は心が震えるような体験をしてしまった。

 上質のエンターテイメントとSFと哲学を融合させたストーリーで、私の年間ベストワン候補の一つであり是非映画でも観たい小説である。

 

「十五の夏 上・下」佐藤優著   第8回梅棹忠夫・山と探検文学賞受賞作

 知る人ぞ知る著者の佐藤優氏は、鈴木宗男事件により2002年に連座で逮捕され512日間の勾留の経験もある人物であり、当時は「外務省のラスプーチン」も呼ばれたそうだ。

 釈放された数年後に仙台で開催された講演会に私が参加したこともあり、著書も数冊は読んでいるが彼のその筆力は驚異的で毎月のように本を書いており、おそらく3桁の出版数になるのではと想像する。

 その膨大な著書の中でこの「十五の夏」は、少し毛色の変わった「紀行もの」のジャンルと思い購入したのであるが、内容は現在の著者につながる思考の原点の旅であった。

 この文庫本は著者が高校1年15歳の時の夏休みに、東欧諸国を40日間一人で旅をした記録であるが、上下で1000ページ以上もあり旅の行動詳細と共にそれに関連した思い出や経緯が克明に書いてあるのだ。

 特に驚愕したことは次の3つである。

 

 1つ目は、15歳の未成熟の少年が大人を凌駕するほどの考えを重ねながら、「思考の旅」をしていたということである。

 そして、訪れる東欧の国々やソ連の歴史や体制や政治家などを、頭に叩き込みながら旅を続け、それをもとに冷静に行動していたのである。

 

 2つ目は、40年以上も前に英語を駆使しながら、出会った人々との克明な会話のやりとりをしており、それも簡単な受け答えだけではなく全篇にもわたりその様子を、映画か演劇の場面のように再現していることである。

 常人であれば録音するか速記録でないとそこまで詳細に書くことは難しく、その記憶力には舌を巻いてしまった。

 

 3つ目には、その内容によく出てくる食事の場面にも著者のコンピューターのような記憶力がいかんなく発揮されている。

 まるで海外グルメ旅紀行のように素材から味付けまで、食べたことのある人であれば思わずつばを飲み込んで思い浮かべるほどのリアルさだ。

 一部抜粋すると「キャビアとパンケーキ、サーモンとスモークしたアセトリーナ(チョウザメ)は絶品だった。(中略)シャシリクもすぐに来た。ウェイターが上手に串を抜いてくれた。ウェイターは肉の上に赤いソースをかけた。トマトをベースにした赤いソースだ。」といったふうに高校1年生がよくぞそこまで、というほど書き込んでいる。

 昨日の食事も頭をひねらないと思いだすのが難しくなった私にとっては、異次元のことのように思ってしまった。

 

 当時著者よりも10歳上の私がその1年前に東欧を巡って「日記」風なことは書き留めておいたのだが、著者の洞察力の広さと深さと緻密さ、その歴然たる違いに読了後に驚嘆してしまったのである。