第186回 昭和回想録その19 〜昭和の会社はおおらかだった?〜

第186回 昭和回想録その19 〜昭和の会社はおおらかだった?〜

 昭和の時代から平成の時代に移った時には、「今年は昭和にすると何年になるかな? ああそうか、昭和70年だ!」などとしばらくは指折り数えていた。

 しかし、今や令和の時代、略すとR2だがなかなかすんなりと脳みそが受けつけてくれず、令和2年を平成32年と言い換えることもなく、そうかといって昭和に換算することもできず、最近では西暦が一番すんなりと頭に入る。

 

 昭和42年は明治100年で、「明治は遠くなりにけり」と世の中でだいぶ話題になったが、この文言は明治が終わってから20年しか経っていない昭和6年に、俳人の中村草田男が「降る雪や 明治は遠くなりにけり」と詠んだ有名な句だそうだ。

 令和7年(2025年)には昭和100年になるので、「昭和は遠くなりにけり」を実感してしまい、昭和とはもうそんな昔の時代なのかと複雑な気持ちになってしまう。

 

 そんな昭和の時代の半ば1970年代前後の会社は、今の時代とはだいぶ違っていたのである。

 

セクハラがない時代

 昭和時代の年末に取引先からいただくカレンダーやダイヤリーには、日本女性の水着写真や外国人女性のヌード写真が掲載されていることは珍しくなく、特にダイヤリーは人気があり争奪戦であっという間に無くなってしまうのが常だった。

 日本女性の場合は少し生々しすぎるのか、ヌード写真は必ず金髪か茶髪のグラマーな外国人女性だったのは、異次元の生き物のようでリアル感がなかったからなのかもしれない。

 そのせいか、製造現場の壁には大胆なポーズを取った極彩色のヌードカレンダーや、水着写真が「安全第一」や「不良撲滅」の会社スローガンの下に、堂々と貼られていたが、それでも女性社員からクレームはなかったようである。

 

 当時の会社では「セクハラ」という概念はなく、女子社員も参加して技術研修用のビデオを観ていたら、キャプチャーの合間になんと外国人のヌードがでてきたことがあった。

 制作した会社に「間違って変な画像がでてきたようだが?」と問い合わせをしたら、なんと「ビデオで勉強していると疲れるので、目の保養で入れたのです。」との驚きの回答。

 

 このように当時は「そういうこと」に関しては、今よりもおおらかな時代だったのである。

 

集金業務が不可欠の時代

 昭和の時代、会社では月末になると、得意先に経理担当のF部長が50CCのオートバイに乗って必ず集金業務をしていた。

 当時は支払額が10万円以上、場合によっては5万円位でも手形で売掛金を回収しなければならず、得意先によっては受取時間を指定されることもある。

 月末以外の5の付く日や10の付く日の支払いの会社も稀にあるので、それでも部長は雨が降ろうが槍が降ろうが必ず出かけていくのである。

 年配のそのF部長が寒い日でも暑い日でも、その愛車にまたがって行くので「得意先に交渉して書留で送ってもらったらどうですか?」と私が提案したが、「相手の会社に手数をかけるし、自分が集金したほうが一番安全だから。」と言って受け入れてはくれなかった。

 私は「郵送の方が効率的で安全」と内心では思っていたが、結局F部長は病気で入院するまでそれを続けていたが、そのまま会社に戻ってくることはなかった。

 その後に、年配の女性事務員が部長の居た机を見ながら「オートバイで外に出ていくのが楽しみだったんだよね・・」と、ぼそりとつぶやくように言ったのを憶えている。

 

 昭和の時代の売掛金支払いは支払手形や為替手形だったが、現在では支払手形による支払方法は書留郵送が大半で、一括支払信託やファクタリングも多くなり、集金業務はほとんど不要でF部長が存命していたら、さぞやガッカリしたのかもしない。

 

禁酒禁煙のない時代  

 年末年始の休みの前の日には大掃除をし、その後の「納会」のために社員全員が食堂に集まり、社長が1年間のねぎらいの挨拶をした後に乾杯をするのが慣行だった。

 今であれば車の通勤者がいるので、ミカンやお菓子などと一緒にジュースやウーロン茶などで乾杯だが、昭和の時代には食堂の机の上に一升瓶がずらりと並ぶ。

 湯飲み茶わんにトクトクと日本酒が注がれ、男たちのほとんどがそれで乾杯しお替りも自由で、それでも平気で車で帰って行った。

 もちろん当時も飲酒運転は禁止されていたが、世の中が上昇志向だったせいなのか事故を起こしたりしなければ、あまり目くじらを立てるような雰囲気ではなかったのである。

 

 煙草は「どこでも、いつでも、何度でも」吸うことができるので、ヘビースモーカーの年配の製造現場社員は、いつも顔をしかめながら口をへの字にして煙草をくわえていた。

 それでも、缶を切り抜いた手製の灰皿だけは、製造現場ではどこにでも置いてあったし、食堂ではいつもモウモウとタバコの煙が立ち込めていた。

 たまたま税務署に行った時のこと、その事務所内では殺虫用のバルサンをたきこめたと思う位に煙草の煙が充満していて、よほどストレスのたまる職場だなあと思ったものだ。

 どこの会社に行っても応接室に置いてあった灰皿、街の食堂のテーブルには必ず置いてあった灰皿、飛行機や汽車やバスやタクシーにも設置してあった灰皿、あの灰皿たちはどこに消えてしまったのだろう。

 

 昭和のあの時代と今の時代を比べることは難しいが、当時は忙しくとも寛容で現在よりも息をするのが楽な時代だった。

 そんな風な気持ちになるのは、私が「団塊の世代」だからなのだろうか。