第176回 世界を股に掛けた?日本人 〜漂流484日の世界記録〜

第176回 世界を股に掛けた?日本人 〜漂流484日の世界記録〜

 このところ世界地図を見る機会が多くなり、といってもコロナの感染情報を見ているのですが、それを眺めていたら江戸時代に世界を股にした日本人が数多くいたことを連想してしまいました。

 鎖国の日本では日本沿岸を航行中に嵐で遭難すると、長い漂流の末に外国に流れ着いても戻ることができずに、異国に骨を埋めざるを得なかった日本人が数多くいました。

 それでも、その大逆境にめげずに生き抜いた日本人を知ることは、今の私達を少しでも奮い立たたせるのではないかと思い取り上げてみました。

 

 2018年にインドネシアの漁師の青年が漂流し、いかだで49日目に2500キロ離れたグアム島沖でパナマ船籍の大型船に救助され、日本経由で帰国したというニュースを記憶している人も多いと思います。

 それより少しさかのぼる2014年には438日間、太平洋を一人きりで漂流していたエクアドルの漁師が救出されたとの報をみて驚いたことがありました。

 詳細はさておき彼の漂流期間はギネス新記録ではないかという話しを聞きましたが、私は「たしか日本人にもっと長い記録保持者がいたはず・・」と記憶にあったので調べたことがありました。

 

484日漂流した小栗重吉

 江戸時代の漂流者としてはジョン万次郎が有名だが、あまり知られていない小栗重吉という人物がいた。

 当時28歳の重吉は1813年に尾張藩の督乗丸の船頭として、江戸から帰還する途中に遠州灘で嵐に巻き込まれ遭難、13名の乗組員と共に太平洋を漂流することになる。

 そして484日後にアメリカのカリフォルニア州沖で、イギリスの商船に救助されるが、生存者は重吉以下3名だけであった。16ヶ月に及ぶ漂流生活、それでも3人が生き残ったのは積み荷が大豆だったということと、海水を蒸留して真水を作る「ランビキ」という手製の蒸留器があったからではないかということである。

 その後重吉たちはロシア船に護送されることになり、1816年に択捉島に到着し仲間も一人病死し、残った二人が尾張藩に帰郷したのは1817年5月であった。

 ちなみに重吉の出身地愛知県西尾市では、484日の漂流をギネス世界記録へ申請し、受理されているという。

 

10年の歳月で帰国した大黒屋光太夫

 井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」は映画にもなっており、実在した主人公は大黒屋光太夫(31歳)。伊勢国の廻船の船頭であった光太夫は1783年に江戸へ向かう途中、嵐のために船が漂流することになり8か月後にアリューシャン列島に漂着してしまう。

 その後に幾多の困難を乗り越えながらロシアの広大な海と大地を横断し、オホーツクからイルークーツクを経由して8年以上の年月を経て、ロシアの帝都サンクトペテルブルクに辿り着く。

 その地で女帝エカチェリーナ2世に帰国を願いでて、それから数か月後に根室の港に入ったのは漂流から10年後の1792年であった。結局、江戸に着くことができたのは17名の乗員のうち光太夫ともう一人だけであった。

 史実とは結末などが違うところがあるが、「おろしや国酔夢譚」を読むと昔の質実剛健な日本人がいたことを誇りに思うのでお勧めの一冊である。

 

 

日本人で初めてロンドンに上陸した「三吉」

 「三吉」とは難破漂流して数奇な運命をたどることになった音吉、久吉、岩吉の3人のことである。3人はそれぞれ年齢が、13歳、14歳、27歳であった。

 1832年10月、荷を満載した宝順丸が大坂から江戸に向けて出航したが、遠州灘で大暴風に遭い漂流する運命になった。

 船は太平洋を漂い14ヶ月後の1834年1月にカナダのコロンビアに流れ着き、生き残っていたのは乗組員14人の内の3人だけであった。

 彼らはインディアンに捕まり奴隷として売り渡された後に、イギリス船の船長に救出された。

 その後の彼らは国と国との狭間で数奇な運命をたどることになる。アメリカからホノルルを経由しイギリスに渡ったのは1835年、その時に1日だけロンドン市内を見物することができ、ロンドンに上陸し異世界に来たような経験をした初めての日本人となった。

 その年にイギリス政府の帰国の計らいでマカオに渡り、1837年琉球に到着、そして三浦半島で寄港を試みるも砲撃される。再度、鹿児島で接岸しようとしたが再び砲撃されマカオに戻ることになる。

 やがて彼ら3人は上海やシンガポールなど東南アジアで、各々別の道を行くことになる。最年少であった音吉が日本の地を踏むことができたのは、1849年5月にイギリス軍艦で浦賀にて、中国人といつわり日本語の通訳をした時だけであった。

 上海で仕事をしていた音吉は、その後に家族と共にシンガポールに移り住み、晩年には息子に日本に帰ることを託し病気で亡くなった。

日本が「明治」になる1年前の1867年、音吉は享年49歳に波乱万丈の人生の幕を閉じたのである。

 

 江戸時代に船が難破漂流し外国に流れ着いた船は、記録だけでも20数隻ありました。

 そして、生き残り外国の地に足を踏み入れた人達は、100名では下らないようです。

 音吉が外国で漂着した日本人の世話をした人数だけでも、2桁なのでもしかすると更に多いのかもしれません。

 さらに過酷なのは運よく外国に漂着したのに、鎖国と禁教で日本に帰れず望郷と無念の思いで、異国を終焉の地にせざるをえなかった人々の心情を考えると、今の時代に生きる我々はなんと幸せと思ってしまいました。