第162回 昭和回想録その16 〜遮二無二にやったアルバイト〜
平成そして令和と時代が移り、人手不足に増々拍車がかかり学生アルバイトは引っ張りだこで金の卵のようになり、時給が千円ということも珍しくない。
アルバイトというと昭和世代には、20歳前後の学生が学業のかたわらに働くということが通念であったが、現在は職業や老若男女問わずに「アルバイト」が存在している。
そして、今はアルバイトではなく派遣社員という就業体型も多く見受けられ、銀座などでは派遣ホステスまであるということを聞いたことがあり驚いてしまった。しかも時給が多いところは5千円も出すのだということを知って、腰を抜かしそうになった。
初めてのアルバイト
昭和時代の私の初めてのアルバイトは、高校の冬休みに働いたスーパーでのミカン売りであった。年末の1週間くらいだけだったが、今よりもずっと厳しく寒い真冬の道路に面した店先で、段ボール箱からミカンをかごに盛り「甘い甘いミカンはいかがですか~」と震えながら大声を張り上げて売ったものだ。
店の社員が「もう1個まけるよお~」と客に呼びかけるのを聞いて、つい私も調子に乗って「2個まけるよっ」と言ったら、「そんなにまけてダメだ‼」と喝を入れられたこともあった。
1日5時間くらいで時給は80円と今では考えられない金額だが、ラーメンが同じ位の価格の時代だったので、それなりの使い出があり、1週間分まとめてもらった初めて手にする大金に思わず笑いをかみ殺してしまった。
それでもそのアルバイト代は何に使ったのかは記憶になく、あぶく銭は残らないということを実感することになった。
アルバイト代、一夜で消える
当時の大学にはアルバイト委員会という組織があり、学生にいろいろなアルバイトを紹介してくれていた。その中で割の良い仕事として、ホテル内にある麻雀荘の仕事に友人と応募し採用された。時間は夕方の4~5時間位で150円の時給、簡単な食事付きという条件であった。
仕事は客へのお手拭きやお茶や酒ビールなどの提供、食事の注文を聞いてホテル内外の料理店に注文、客が帰った後の灰皿やコップや食器などの片づけと洗い、そして店の開店準備と清掃など。合間に簡単な食事を急いで済ませるが、若かったのでそれでは胃袋は満足せずいつも欠食児童のような我々であった。
その雀荘には今であれば問題になるような官公庁の役人が時々来店し、寿司の松を必ずといっていい程注文した。彼らは麻雀に熱くなるとあまり食欲が無くなるメンバーもいるらしく、引き揚げた後に寿司の容器にはいくつか残っており、「もったいない」と友人と2人で分け合いながら時間差でご相伴させていただいた。
給料日には1か月の労苦の成果の1万円以上を現金でいただき、友人と「今日はうまいものでも食べよう」と夜の繁華街へ繰り出した。
腹が満たされた後に歓楽街を歩いていたら、呼び込みの男に「二千円ぽっきりっ‼」、「女の子きれいだよ‼」と声をかけられた。
友人は「入るぞお~っ」と行く気満々、私は「やめた方がいいのでは・・」と言ったのだがその呼び込み男は優男で口もうまく、ついそのバーに入ってしまった。
案の定というかお定まりというか、薄暗い店内でホステスらしき女が二人そばに座り、会話も進まず飲み始めた。友人は前の居酒屋で出来上がっていたせいかはしゃいでいたが、異様な雰囲気なので30分ほど経った頃に彼を説得し勘定することにした。
「・・・」と無言でボーイらしき輩が出したそれには目の玉が飛び出るような法外な数字が並んでいた。私はグラス1杯しか飲まず、高すぎるといったのだが予定通りというか怖いお兄さんが2人出てきて凄まれ、結局バイト代1か月分をふんだくられてしまった。
店名からして怪しい「バー・ピチピチ」というその名前から、”ピチピチ”という言葉を聞くと、今でもトラウマで心が怪しくざわめくのである。
二人で「あの店に火をつけてやろうか」「呼び込みの男を袋叩きにしようか」などといいながら、腹立ちと悔しさと虚しさと同時に「今日までの1ヶ月は何だったのか・・」と、一夜で消えたアルバイト代を思い、後悔しながら帰途についたのであった。
なんでもやったアルバイト
学生の頃に所属していたのが旅関係のクラブだったので、当初はその費用に充てるためにどんなアルバイトでも引き受けた。ただ当時は今のような求人難ではなかったので、見つからない時も多かったのでアルバイト委員会に足げに通った。
1日だけのアルバイトでは、催し物のポスター張りやPRの為のチラシ配り、東北大学研究室の引っ越し、物販の店頭販売、英語検定の試験監督等々。
英語検定の試験の時には、あまりのアルバイトに疲れたせいか、教壇の机でつい居眠りしてしまい受験生に起こされてしまったこともあった。
1か月以上の泊りがけの建築関係のアルバイトでは、宿と食事が3食付いて千円と当時としては条件が良いので結構長く続けた。その仕事は時には4、5階の建物の外壁の渡り板を、命綱を付けながらサッシを運んだ後に取り付けるという作業であった。
現場の責任者には「労災をつけたから安心して働きなよ」と言われたほどの高所作業であったが、あまり気にしないでアルバイトに精を出していたような気がする。
4学年の頃には就職して時期が来たら異国を旅するという夢があったので、貯金をするという目的もあり「働きがい」があったのかもしれない。
昭和の数ページである学生時代のその4年間は、遮二無二にアルバイト、麻雀、旅、そして学業に明け暮れていたが、当時の新卒の給料は5万円台の時代に、アルバイトだけで18万円貯めたのが密かな自慢だった。
ただ学生運動が最盛期のその時代、学び舎がバリケード封鎖されてけじめの卒業式ができなかったのが心残りではあった。