第154回 昭和回想録その15 〜風邪の想ひで〜

第154回 昭和回想録その15 〜風邪の想ひで〜

 インフルエンザが今年の秋も猛威を振るい始めたということで、めったにしない予防注射をしてきた。そのワクチンは前年までに流行した東南アジアの地域を調査し、鶏の受精卵をもとに毎年作るということをかかりつけの医者から聞いて、卵かけご飯を食べながら改めて鶏さまに感謝しつつ、そして子供の頃に罹った風邪を思いだした。

 

 風邪といえば昭和の時代は、小学校では風邪が流行っても学級閉鎖になったということはほとんど記憶にない。しかし、当時は風邪の大流行の年になると今とは比べものにならないくらいに亡くなった人が多かったようである。

 

 風邪が流行ると流行性感冒といっていたが、昭和32年には8000人、昭和37年には7000人が亡くなったという。流行性感冒とは今のインフルエンザのことだが、略して「流感」といっていた。当時はそれをうつりやすい風邪のこととしか理解していなかったが、小学校では予防をするには「手洗い」と「うがい」しか指導されなかったような気がする。

 

 小学校では6年間学校を無遅刻無早退無欠席すると、皆勤賞として卒業時に表彰状をもらえるというので、40℃の熱が出ても登校したのだが余計に症状が悪化してしまい、1週間近く休んでそれが途切れ悔しい思いをしたこともあった。今思うにもしかすると、インフルエンザに罹ってしまっていたのかもしれない。現在のように「熱が引いても2日間は休む」などということは誰も知らなかったので、お互いに病原菌をうつしまくっていたのかもしれない。

 

 風邪をひいて熱が出るとどこの家庭でも常備されている赤いゴム製のタポタポと音がする水枕で頭を冷やす。足は冷えているのでブリキの湯たんぽをやけどしないようにタオルで巻いて温める。

市販の風邪薬がなかなか効かない時は、少し高い「アンプル薬」を飲むことになる。今のアンプルというとほとんどが注射用だが、昭和では風邪の時に飲むものだと思っていた。

 アンプル薬の形は今のものとほとんど同じだが、その箱にはハート型の小さいヤスリが付いていて、それでガラス製アンプルのくびれた個所をキーキーとこすって傷をつける。そして上部の細いガラスを指でパキッと折り、中にガラスの破片が入っていないことを確かめて付属の細いストローで液状の薬をチューと飲む。

 アンプル薬は注射の薬と同じような容器なので、粉薬や錠剤を飲むよりもはるかに効き目があるような気がして、薬くさいが少し甘いようなその液を喜んで飲んだような記憶がある。

 後日にわかったことだが「アンプル風邪薬事件」という出来事が昭和半ばに発生し40人近く死亡した。原因は飲み過ぎた人が多かったともいわれるが、日本中が大騒ぎになったのでその後はほとんど出まわらなくなったようである。

 蛇足であるが、三共製薬の風邪薬のCMでおなじみの「くしゃみ3回、ルル3錠」は昭和30年からCMとして流れていたそうで、「知らない人はいないのではないか」ということがうなずける。

 

 アンプル薬などでも風邪の症状が良くならないと、いよいよ親に近所にある病院まで連れて行ってもらうことになる。

 鬼か悪魔かと見えるほど恐ろしい医者に解熱効果のあるという痛い注射をされ、そして粉薬を処方され帰宅。薬は苦いのでオブラートにくるんでようやく飲むのだが、それが喉の途中で粘ってしまい粉がはみ出したのを飲まなければならないことも度々あった。

 

 ただ一つの風邪になって良かったと思ったことは、食欲がないので栄養をつけるためと特別に買ってくれるめったに食べられない甘いバナナにありつけたことであった。

 

 風邪で熱が出ると天井板の木目が人の顔に見えたり、夜中にポッチャン便所に行くと便器の中や小窓から怖いものが出てくるのではないかと思ったりもして、ぎりぎりガマン限界まで用足しを渋っていたこともあった。

 

 風邪がひどい時には熱で寝巻きが汗でぐっしょりとなり、そういう時ほど悪い夢を見ていたような気がする。普段は寝ている時にはほとんど夢を見ないし、楽しい夢を見た覚えもあまりなく、体調が良くない時に限り訳の分からない夢や恐ろしい夢を見てしまう。

 

 小学校の校長先生がときおり「皆さん、夢を持つように!!」などと朝礼で話しを聞くと、「あんなこわい夢なんか二度と見たくない・・」と思ったものである。

 「夢」とは将来のやりたいことや叶えたいことと理解したのは、私が小学校の高学年になってからであった。

 

 いずれにしても「風邪は万病のもと」といわれるくらいで、罹ってしまうと免疫力が弱ってしまい、持病の悪化や弱いところにダメージがきてしまうので、ゆめゆめ軽視しないでいただきたい。