第136回 昭和回想録その13 〜汽車の想ひで〜

第136回 昭和回想録その13 〜汽車の想ひで〜

 JRがまだ日本国有鉄道だった頃、昭和40年代の学生時代の夏休みに、九州をヒッチハイクで旅をしたことがあった。

 

 友人と2人で行ったのだが、今の学生と同じで暇はあるが金はないので、仙台から小倉までのその間を急行列車で乗り継ぎ、20時間ほどかかりなんとか翌日に到着した。

 旅の長さで同じ姿勢をしていたため、足腰の痛さと睡眠不足で初めての九州の地に降り立った時には、麻酔から覚めたあとのように頭が朦朧としていた。

 

 小倉まで距離にして1300km、仙台と上野間は6時間、そして東京まで乗り継ぎ小倉まで10数時間の旅であった。今であれば、新幹線を乗り継ぎ7時間ほどで行けるし、飛行機であれば2時間弱なのだが、当時は格安航空LCCもなかったのだが、その20時間の旅は実際にはあまり苦にならなかった。

 

 初めての九州の旅に興奮していたせいか、若くて体力が充実していたせいか、九州1周の旅は3週間位だったが瞬く間の体験であった。小倉に到着してからは、大分県から時計回りに徒歩やヒッチハイクがメインで、時々はローカルバスを乗り継いだ。九州6県を暑さに苦しみ大汗をかきながら、それでも大変充実した体験をすることになり、その達成感はその後の私の旅の出発点になったのではないかと、今振り返るとそう思うのである。

 

 ちなみに、JRは昭和62年4月1日に日本国有鉄道から民営化され、昭和の時代から2年後の平成の時代への道標の一つになったのではないだろうか。

 

 この旅のあと、アルバイトしては資金をため汽車で旅をする、そしてお金が無くなるとまたアルバイトをして旅をする、を繰り返していた。そして学生時代に47都道府県のうち40県以上は走破したことが当時の私の密かな自慢でもあった。

 

 昔は特急列車、急行列車、準急列車、普通列車があり、さらに1等2等の座席区分があったが、1969年に1等はグリーン車、2等は普通車になったので、私が旅したのはその端境期であった。

 

 鉄道が電化されたのは、上野・仙台間が昭和36年で仙台・青森間が昭和43年なので、その旅をした時は既に全線電化になっていたのだが、さらに年代がさかのぼった昭和30年前後は蒸気機関車が圧倒的に多かった。

 

 その昭和30年前後、母の実家に行く時などに汽車に乗ると、モクモクと白や黒の煙が車窓から後方に流れていくのが見え、その形が面白く飽きずに眺めていることがあった。そうしていると急にトンネルに入り車内が真っ暗闇になってしまい、母からすぐに窓を閉めるようにと叱られてしまう。しかし、時すでに遅く窓から入った煙は、煤も混じってせき込むほどに充満してしまい、他の客に顔をしかめられてしまうこともあった。

 

 また、汽車の中で用足しにトイレに行くと、その便器からは下の線路流れるように見えるのが、面白くもあり恐ろしくもあった。万が一そこに落ちてしまったらと思うと、肝が冷えるように身がすくんでしまい出るものも出ない気分にもなった。それでも用を足した後の爽快感はなかなかの感じであった。

 このボッチャン便所の中身は「後は野となれ山となれ」と線路沿線に撒かれてしまうので、汽車が走る近辺は稲がよく育ち野菜がよく採れるとか採れないとか・・・ただ車窓を開けたままでいると、天気が良いのにたまに冷たいものがポツンと顔に当たることが少し気にかかっていた。

 

 少し長く汽車に乗ると、今ではあまり見かけない土瓶の急須に入ったお茶を弁当と一緒に買ってもらうことがあった。正式には汽車土瓶というらしいが、やがてそれもほとんどがポリ容器に代わってしまい、今はそれもあまり見かけることはなくなった。当時の土瓶の容器は今ではネットでは少し高値で売られているらしく、いろいろな種類を持っていたら「なんでも鑑定団」に出られ高値が付くのかもしれない。

 

 線路のガタンゴトンという規則正しい音を聞きながら、カチカチの冷凍みかんを食べ風に吹かれているとついウトウトしてしまう。やがて、母に起きるようにうながされ、寝ぼけ眼で目的の駅に着くという、あのけだるいような懐かしい昭和の旅が今はもう2度とできないと思うと、少し感傷的になってしまう令和時代の私である。

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