第134回 白秋雑考 〜人生春夏秋冬〜

第134回 白秋雑考 〜人生春夏秋冬〜

 昔ばなしは、「昔々あるところにお爺さんとお婆さんがいました・・」で始まりますが、現在は「今はいたるところにお爺さんとお婆さんがいます・・」の時代です。

 

 どこにいっても、例えば昼食時など少し評判の飲食店などに行くと、若い人たちよりも圧倒的にシルバーの人たちで店がいっぱいになっていることは珍しくありません。

 また、今の若い人たちはその名前も知らないかもしれませんが、古希を過ぎたシンガーのアリスや高橋真梨子、小椋佳などのコンサートは、チケットの売り出し日が数日過ぎただけで、手に入らないこともあります。その会場はまるで「60歳未満入場禁止‼」ではないかと思うほどに、シンガーの年齢に近いシルバーばかりでごった返します。 

 

 日本で2007年に生まれた子供たちの50%が107歳まで生きるとイギリスのロンドン・ビジネススクール教授のリンダ・グラットン氏らが「ライフ・シフト」という本に書いています。

 そんな時代が本当に来るのかはわかりませんが、日本には100歳以上の人が7万人 (うち女性は88%)いますが、世界中では110歳以上の人は100人位しかいないので、寿命はやはり頭打ちがあるのでしょう。

 

 心身ともに健康で生活に困らなければ、長生きしたいと思うのは当たり前です。しかし、時間は有限、水を貯めているバケツのように必ず底をつきます。残りの水がどの位あるのか考えながら、有効にその貴重な水を使わなければなりません。

 

 昭和時代は、55歳になると定年が一般的でそれ以降は、「老後」や「余生」を過ごすといって老け込んでしまう人が多かったようです。

 しかし、人生を季節に例えると、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」という呼び方がありますが、青春は25歳頃まで、朱夏は60歳頃までとだいぶ長い期間なので、本当は昔の定年はまだ人生の盛りだったのです。

さらに白秋は60歳頃から75歳頃なので、まだまだ人生を楽しむ時期なのです。ちょうど私が白秋のど真ん中にいますが、自分では朱夏をまだ引きずっているような気がします。

 そして玄冬は75歳頃からで「玄」とは赤や黄を含む黒色とか、天地万象の根源、あるいは微妙で奥深いこと、という意味だそうですから、そろそろ宇宙に帰る、天に帰る季節なのだなあというイメージを持つと良いのではないでしょうか。

 

 作家の五木寛之はそれらを絵に例えて次のように言っています。

「青春はクレヨン画。朱夏が色鮮やかな油絵で、白秋が水彩。そして玄冬は水墨画みたいなものかもしれません。モノトーンの黒色の中に、あらゆる無限の世界がある。」

 なかなかに素晴らしい表現で、どの季節にいたとしても励まされ安心できるような気持になります。

 

 平均寿命はオギャーッと生まれた赤ん坊の平均余命のことですが、私たちが気になるのは今の自分や家族があと何歳生きられるかという平均余命と健康寿命です。

 下記の表は厚生労働省が発表した平均余命と平均寿命の資料です。

 この表を見ると、いま青春を謳歌する20歳の男子は平均余命が61.45なので寿命は81.45歳、朱夏50歳の中年オジサンは寿命が82.61歳、白秋の70歳のシルバーは85.73歳と、なんと成人を迎えた若者よりもそれぞれ1.16歳と4.28歳も長生きなのです。さらに、日本には200万人以上という玄冬の真っ盛りの90歳になると、その寿命は94.25歳ですから12.8歳も20歳の若人よりも人生を多く過ごすことができるのです。

 平均寿命は50年で15歳近く伸びていますし、好奇心を常に持っていると年齢よりも若くそして長く生きることができると脳科学者も話していました。

 

 65歳以上の白秋人には、特典が有り余るほどあります。

 JRの大人の休日倶楽部では、鉄道運賃が30%の割引や、全日空と日本航空では当日であれば60%の割引もあるようです。私が好きな映画館は夫婦どちらかが50歳以上であれば二人で2200円、60歳以上になると一人1100円というシルバーサービスがあります。さらに、買い物優待や飲食店の割引サービスも数多くあり、スキー場のリフト券や公共施設も優待がない施設はほとんどありません。

 私の住んでいる仙台市では、70歳以上になると地下鉄やバスの乗車券が十分の一、例えば500円で5千円の乗車券がチャージできます。

 長生きの秘訣は「教育教養」からもじった「今日行く今日用」と、いつも出掛けて目的を持って過ごすことが大事なのでしょう。

 

「黄梁一炊の夢」(こうりょういっすいのゆめ)という故事があります。

「黄粱」は粟、「一炊」はその粥を炊く短い時間のことです。唐の盧生という人が、旅の途中に道士から出世が叶うという枕を借りて寝ると、財力や権力を手に入れる夢を見ることができた。だが目が覚めると、宿の主人に頼んでいた粟の粥がまだできていないほどのわずかな時間しか過ぎていなかったという例えです。

「人生というものははかない」ということですが、「玄冬」がすぐ近くに来ている私は、その「一炊」の間にできることは、たくさんあるのだと思っております。