第114回 昭和回想録その11 〜お金とお小遣い〜

第114回 昭和回想録その11 〜お金とお小遣い〜

 現在のサラリーマンの小遣いは、統計をとり始めた1979年から比べると、1万円ほど下がり3万7千円が平均という。40年前は4万7千円というのに上がるどころか下がっているのが現実である。そして、その小遣いのピークはバブル真っ盛りの1990年に7万8千という数字をたたき出したこともあったのだ。今の倍以上の額をサラリーマンが手にしていたので、物価水準と比べてもだいぶ懐とそして心にも余裕があったはずである。

 

 そのピークより20年程さかのぼる昭和30年前後には、5円硬貨と50円硬貨は穴の開いたのと開いていない2種類あり、それに今より少しサイズが大きい100円硬貨も出回っていた。

 又、紙幣は1円札と5円札と10円札、そして今は硬貨しか流通していないが、100円紙幣と500円紙幣は使ったし、目にしたことも多かった。

 ちなみに、紙幣のデザインは1円が二宮尊徳、10円が国会議事堂、100円が聖徳太子、500円が岩倉具視である。昭和33年には1万円の高額紙幣も出たが、金持ちのことを「百万長者」という時代であったので、めったに目にする機会がなかった。

 

 小学生の頃は、小遣いは1日10円で月に3百円だった。

 キャラメルや鉛筆やコッペパン、切手や電話賃も10円で、少し高いのが牛乳やチョコレートが15円だが、1日分の小遣い程度で買うことができた。しかし、バナナは50円位と高級果物のために、病気をして食欲がない時や遠足に行く時くらいしか食べることができなかった。

 普段小遣いを使うというと近所の駄菓子屋で、メインはやはり口に入るものである。試験管のようなガラスの容器に赤青黄色の極彩色の寒天が入ったもの、ニッキの味がするこれも激しい色に染められた甘い味がする紙のようなもの、食べた後にどのくらい舌に色が付いたか競い合ったりした。人工甘味料と人工着色料の元祖のようなものが、駄菓子には随分と使われていたのだろうか。

 くじモノもよくあり、その中でも甘納豆くじが好きでよく引いた。小袋の甘納豆がボール紙の台紙に幾つも貼ってあり、上の方には大袋の甘納豆や景品のおもちゃが付いていて、5円や10円払って袋を開けると当たりハズレの紙が入っている。このくじ引きには何度も挑戦して挫折した思い出がある。同じように糸のついた大小のイチゴの飴もあったが、それは確率的には良いようであった。

 粉末ジュースも小分けで売っていて手軽に買え、夏の暑い季節にはラムネやサクサクしたドリアンという冷たいアイスも食べたりした。

 食べ物以外も、まるぱった(めんこ)やヒーローや大相撲の力士のブロマイド、ビー玉、かんしゃく玉、2B弾など、欲しいものはたくさんあり集めたりしたのだが、今はもう跡形もない。残っていたらきっと「なんでも鑑定団」でお宝認定されたのではと、少々残念である。

 

 小学生の頃、小遣いがたまると友達と連れ立って「デパートの旅」を何度かしたことがあった。予算は100円きっかりで、内訳は市電往復30円、ラーメン40円、ソフトクリーム30円である。歩けば40分位の距離だが片道15円の市電に乗ると、日常から離れたような気がするのと、親から自立したような気分にもなり、必ず市電を利用した。

 デパートに行くとおもちゃ売り場のマジックコーナーには、必ず行くことにしていた。当時はいつも販売員のマジシャンがいて、見たいマジックを何度もせがんで実演してもらうが、なかなかタネを見破ることはできない。かといってその手品を買うお金もないが、マジシャンは嫌な顔をせずに私たちに付き合ってくれた。

 

 小遣いの他に臨時収入としては、年に1度か2度母の実家の田舎に行くと小遣いが貰えるのが楽しみであった。たしか小学5年生の頃の夏休み、2時間ほど市電と国鉄を乗り継ぎ、着いた駅から30分ほど歩いて1人で行ったことがあった。今でも覚えているのは「遠いところ、よく独りで来たね・・」と親戚に驚かれたことと、帰る時に祖母からシワだらけになった手でチリ紙に包んだ数枚の百円札を私の手の中に 握らせてくれたことであった。

 

 その時分の臨時収入としては、お年玉が500円、町内の祭りの時には50円というのが我が家の相場であった。

 

 平成の小学生の小遣いは月に千円が一番多いらしいが、それからすると昭和の子供の方が物価と比べるとはるかにお金持ちだったのだ。しかし、3割の小学生が持っているスマホの費用や塾などの教育費など、昔では考えられないような類の家計の負担が重くのしかかっていて、現代の家庭ではとても子供の方には回る余裕がないのかもしれない。