第110回 白虎隊外伝 〜仙台にあった生き残り隊士の墓〜
仙台市内にある輪王寺に墓参りをしてきた。
誰の墓かというと、白虎隊で自刃した少年たちのただ一人の生き残りであった最年少の隊士の墓である。なぜそれが分かったかというと、最近、植松三十里(みどり)氏の「ひとり白虎」という著書を読み、その巻末の解説に彼が仙台で死去し市内の墓に眠っているということを知ったからだ。
この小説を読み終わった時には、あまりにも過酷過ぎる、そして充実した人生を送った主人公の物語に感動し、その生きざまに少しでも触れようと思いその墓を訪れてみたのである。
私が初めて白虎隊を知ったのは、小学6年生の時の修学旅行で会津若松の鶴ヶ城を見学した時に、その少年たちの悲劇が剣舞を通して紹介されたからであった。この白虎隊の物語は、その後は何度となく書籍やテレビや映画で見る機会があり、日本では知らない人がいないほどの幕末と明治維新の特別の史実の一つであった。
その辛労辛苦な運命を切り開いていったのは「飯沼貞吉」(後に飯沼貞雄と改名)という人物である。そこで実際に貞吉がどのような人生を歩んだのか、興味がわき調べてみた。
貞吉は1854年3月25日に家禄450石、会津藩士の飯沼時衛一正の二男として生まれる。15歳の時に是非とも入隊したいということで16歳と年齢を偽り、白虎隊に入り戊辰戦争にて幕府軍と戦うことになる。
白虎隊は、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊であるが、その他に会津藩が組織した部隊には年齢によって、玄武隊、朱雀隊、青龍隊がある。そして各部隊も上級藩士の士中,中級藩士の寄合,下級藩士の足軽と分かれており、貞吉は1868年8月22日、会津藩白虎隊士中2番隊37名の1員として出陣する。翌日の23日未明、官軍の猛攻を受け17名がたどり着いたのが自刃した飯盛山である。
現在、会津鶴ヶ城には、貞吉を除く白虎隊十九士の肖像画が置かれてあるが、実際に自刃して亡くなったのは16名で、3名は近くで戦死した隊士だったようだ。さらに、白虎隊は全滅したのではなく、隊の中級藩士や下級藩士では生き残った者は結構いたらしい。
そして、定説や演舞では飯盛山にたどりついた後に、町が燃えているのを城が燃えていると勘違いして、「もはやこれまで」と自刃に至ったと説明されている。しかし、貞吉の後の回顧録で、刀折れ矢尽きてしまい他の武士の足手まといとなるよりは「捕虜になるより、いさぎよく自刃し武士の本文を明らかにする」道を選んだということが真実らしい。
貞吉も仲間と同様に自刃しようと咽喉に刀を突き立てたのだが、同じ年頃の息子がいる会津藩士の妻ハツが、心配して飯盛山に捜しに来たところ、まだ息のある貞吉を見つけ介抱したという。その後、息絶え絶えの貞吉は、幸運にも数名の医者による奇跡的な治療により一命をとり止める事ができた。
貞吉はこのあと仇敵でもある長州の藩士楢崎頼三により山口県にて世話になるが、己がただ一人生き残ったとの自戒の念で何度も自殺を図るも、長州の人達の励ましや温かい言葉で少しずつ強く生きていくことを考えるようになる。
数年後に、静岡や東京で巡り合った幾多の恩人のおかげで電信修技校に学ぶことになる。そして明治5年(1872年)、工部省(総務省)に任官し、電信網の技術専門家として全国を東奔西走する。明治6年には東京から長崎まで1340kmの電信が開通したが、その完成にも貞吉は関わったとの話しもある。
日清戦争では大尉として朝鮮半島にて軍用電信線路架設に従事した時には、危険だからとピストルを持参するよう言われた時に、「私は白虎隊で死んでいるはずの人間です」といって断ったという。
やがて貞吉は仙台逓信管理局工務部長を最後に大正2年(1913年)60歳で退官、同年に正五位勲四等に叙せられている。
その後も仙台に居住し、昭和6年(1931年)2月12日、享年78歳にて、その波乱万丈の生涯を閉じた。
貞吉の母は出陣の時に「梓弓 むかふ矢先は しげくとも ひきなかへしそ武士(もののふ)の道」という和歌を送ったそうである。これは「弓矢がどんなに激しく 向かってこようとも、決して引き返してはならない。それが武士の道である。」と普通は解釈されるというが、貞吉の直系の孫である飯沼一宇氏は「人は心に決めた道を、厳しい困難に出会っても引き返さずに突き進んでいくべきだ。」との意味ではないかと話している。
この解釈は現代に住む我々はもちろん、いつの時代にも通じる考え方ではないかと思う。
飯沼貞吉は晩年に「すぎし世は 夢かうつつか白雲の 空にうかべる心地こそすれ」と詠んで、自分の人生を回顧したという。