第103回 千戦不敗の格闘王 〜コンデ・コマの軌跡〜

第103回 千戦不敗の格闘王 〜コンデ・コマの軌跡〜

 今年は日本人がブラジル移住をはじめて110周年にあたり、いろいろな行事が催されており、その1つとして秋篠宮家の眞子さまがブラジルを訪問して現地で大歓迎されたことは記憶に新しい。 

 それで思い浮かべるのが、世界を渡り歩き1000戦以上の試合をしても一度も負けなかったという信じられない逸話の持ち主の「前田光世」である。前田はブラジルでは格闘技界では知らぬ人はいないというほどの超有名人であるが、案外と日本ではあまり知られていないようだ。

 

 私の趣味の一つに「読書」があるが、ジャンルは関係なく乱読に近いものがあり、格闘技関係のフィクション、ノンフィクションも読むのだが、その中に時々出てくるのが前田光世なのである。

 以前に日本の格闘技界を震撼させたブラジルの格闘技「グレイシー柔術」は聞いたことがある方は多いはずである。これはポルトガル語で「ヴァーレ・トゥード」(何でもあり)というルールで行われる異種格闘技で、並み居る日本人の格闘家をグレイシー一族が次々に倒してその実力をまざまざと見せつけられたことがあった。

 

この「グレイシー柔術」の始祖が前田光世なのである。

 

 前田は1878年に青森県にて農家の長男として生まれ、18歳の時に上京しその後、嘉納治五郎が興した講道館に入門し「講道館四天王」の次の世代となる「講道館三羽烏」の一人となった。ちなみに「講道館四天王」は西郷四郎、横山作次郎、山下義韶、富田常次郎であり、西郷四郎は中高年の日本人はだれでも知っている「姿三四郎」のモデルになったといわれている人物である。

 そして「講道館三羽烏」には轟祥太、佐村嘉一郎とともに前田光世の名があり、この7人の面々は一人一人が小説の主人公になるほどの伝説の持ち主なのである。

 

 1907年、富田常次郎が講道館から柔道の普及を託され、米国に渡った時の随行者として選ばれたのが前田光世であった。力が衰えた富田に代わって実践したのが前田であり、小柄な体でフットボール選手などの大男相手に練習試合をし、柔道の技で相手を倒し驚かせた。

 その後、前田は単独で米国西海岸で初めての公開勝負を行い、60数kgの自分の体の倍近くある113kgのブッチャーボーイというプロレスラーと戦い、8分ほどで投げ技や関節技で圧倒的に勝利したのである。

 

 この公開勝負に自信を深めた前田は、アメリカをはじめイギリスやベルギー、フランス、スペインなどで、ボクサーやレスラーと連戦し勝ち続けていった。ただし、柔道着を着用しないルールの時は、稀に負けることはあったが着用した時は負け知らずで、次のような逸話もあるほどの戦いぶりであった。

 

 当時ヨーロッパ最強と言われていたロシア人レスラーハッケン・スミスの試合会場に、前田が乗り込み対戦要求したことがあつた。それはスミスが重量級のレスラーにタイツ姿で決勝の時に負けた前田のことを「大会を席巻した東洋の小柄な柔道家もレスラーの前では相手ではなかった」と揶揄したことが理由であった。

 前田の要求におじけついたスミスは「あの記事は私が言ったことではない」などと言って対戦を拒否して尻尾を巻いて逃げてしまったとのことである。

 

 前田はその頃いつも経済的に困窮しているようで、スペインでのリング名をつける時に「金に困る」から「コマル」そして「コマ」、「前田コマ」と自分で名付けた。そして、その勝負強さと礼節から「伯爵」を意味する「コンデ」をスペインで与えられ「コンデ・コマ」と名乗るようになったのだ。

 

 欧州を後にした前田は、中南米にわたりメキシコでレスラー相手に圧倒的な強さで勝ち続け、熱狂的な人気を獲得し各国を歴戦しブラジルに着いたのが1914年であった。

 この地で前田は、その大自然や人々のおおらかさが気に入り、アマゾン川の河口のベレン市に落ち着くことになる。この時にベレンはちょうど入植三百年祭の最中で、そのイベントの格闘技大会に飛び入り参戦し優勝する。それをきっかけとして、警察で柔道を教えながら道場をやっていると、そこに入門した子供達の一人が「カーロス・グレイシー」であった。

 ちなみにカーロス・グレイシーの父親のガスタオン・グレイシーは前田の前座であったという説もある。その後カーロスは「ブラジリアン柔術」を立ち上げ、5度結婚して授かった21人の子供を従えて、「グレイシー柔術」の世を謳歌することになる。

 

 1922年40歳も半ばとなった前田は、格闘家人生を卒業するとアマゾンの入植事業に関わることになり、ほぼ同時期にイギリス人の女性と結婚し、新たな人生を送ることになる。

 

 1940年、前田はアマゾン開拓事業の功績として、36年振りに故郷の土を踏めるべく、記念柔道大会に外務省から招待された。しかし、妻が日本から帰らなくなることを心配して止められたために帰国を断念した。

 

 それから1年後の1941年10月28日ベレンにて前田は持病が悪化し永眠、享年63歳であった。

 

 前田の最期の言葉は「日本の水が飲みたい、日本に帰りたい」だそうである。

千試合以上不敗の「コンデ・コマ」もやはり最後には故郷「日本」が懐かしかったようであった・・・

 

 100年以上も前に世界で大活躍した日本人は、まだまだいると思うがいまの日本人にとって大切なものが、その生き方に幾つもあるのではないかと考えさせられるのである。