
第98回 昭和回想録その9 〜ラジオの想ひで〜
昭和時代真ん中の子供のころは、夜になるとひそかな楽しみがあった。
空気が澄んでしまうせいかラジオの電波の受信感度が良くなり、日中には聞くことができない海外からの日本向け放送を聴くことができた。
ガーガーピーピーという雑音の合間に、「・・・こちらロシアの声です・・・」という日本語の男の声が聞こえてきた。
地元の放送局と周波数が近いのか深夜になると、それを押しのけるように聴こえてくるのである。現在よりも濃く深い夜の色があったような昭和30年代の夜中の時間。それを聴いていると、子供心にソ連の得体のしれない闇に引きずり込まれそうだが、怖いもの聴きたさに耳を傾けたものだ。その「ロシアの声」も戦時中から続いた幕を2014年に閉じてしまった。
昭和40年代になるとエクアドルからの日本語放送「アンデスの声」をたまに聴くことができ、日本向けの海外放送の番組表を手に入れ、各国の放送をウキウキしながら聞いて海外への夢を抱いたりもした。
当時家にあったラジオは、真空管式で上部がレコードプレイヤーになっていた。SPレコ―ドは今と違って音楽の長さは2分ちょっとしかなく、A面とB面や別のレコードを交換するのに結構忙しく、レコード針も寿命があまりないので頻繁に取り換えなければならなかった。
小学校に上がる前には、グルグル回るレコード盤の溝にピカピカの針を乗せると音楽が聴こえてくるのが不思議で、親にねだって何度もレコードをかけてもらったりもした。
ラジオ番組でうろ覚えだが今も記憶にあるのは、NHKラジオの「ヤン坊ニン坊トン坊」である。確か日曜日の夕方だと思うが三匹の猿たちの冒険物語で「♪ヤンボー、ニンボー、トンボー♫」と子供たちの声の主題歌が耳に残っている。
1954年から1957年まで放送されたが、同じくらいの年齢の子供が演じているのかと思っていたが、その配役は「しっかり者」のヤン坊が里見京子で「暴れん坊」のニン坊が横山道代、「可愛いちび助」のトン坊が黒柳徹子と知ったのは最近のことだ。
日本のラジオドラマで初めて大人の女性が子供の声を演じた番組、しかもあの声優界のレジェンド黒柳徹子の初主演番組であったという。
NHKの「三つの歌」は1951年から1970まで20年間続いた長寿番組だったので、そのイントロの歌とともに60代の人はほとんどが覚えているだろう。
名司会者宮田輝アナウンサーによる絶妙の司会による聴取者参加型の音楽番組である。課題に出されたピアノの曲を参加者がその歌詞を間違えずに歌うことができるのか、1曲歌えると300円、2曲は500円、3曲でなんと2000円の賞金が出るのだ。
1960年の物価を調べてみると、大卒初任給10000円、ラーメン50円、週刊誌30円 映画館180円の時代なので、その価値は推して知るべしなのである。
「三つのうたです♫ 君も僕も♪ あなたもわたしも♫ ほがらかに♪
忘れた歌なら♫ 思い出しましょ♪ みんなみごとに♫ うたいましょ♪」
ラジオからは童謡もよく流れていた。
今でも覚えている童謡少女歌手が、松島トモ子を筆頭に小鳩くるみや古賀さと子などで、由紀さおりとなったのが安田章子ということを知ったのはだいぶ後のことであった。
童謡といえば、子供の頃は何気なく聞いて口ずさんでいた郷愁を感じる幾つかの童謡に、別の解釈があるということをご存じだろうか。
「シャボン玉」野口雨情作詞・中山晋平作曲
シャボン玉飛んだ♪ 屋根まで飛んだ♪
屋根まで飛んで♪ こわれて消えた♪
シャボン玉消えた♪ 飛ばずに消えた♫
産まれてすぐに♪ こわれて消えた♪
風、風、吹くな♪ シャボン玉飛ばそ♪
この歌詞は野口雨情が、生まれて間もなく死んでしまった幼子を思い出し、それをシャボン玉に見立てて作詞した説である。そう解釈するとシャボン玉がはかなく消えていくという情景が浮かび、雨情の切ない悲しみが心に染み入るようである。
同じく雨情の作詞した次の童謡にも実話のモデルがあるといわれている。
「赤い靴」野口雨情作詞・本居長世作曲
赤い靴 はいてた 女の子♪
異人さんに つれられて 行っちゃった♪
横浜の 埠頭から ふねに乗って♪
異人さんに つれられて 行っちゃった♪
家庭に事情がある幼女がアメリカ人宣教師に預けられ、渡米する予定だったが結核になっていたので孤児院に預けられた。その子は間もなく死んでしまったが、預けた母親は娘がアメリカに暮らしていると自分が死ぬ最後まで思っていたという。
また、「赤とんぼ」や「はないちもんめ」は人買いの歌ではないかという説もあり、昭和の童謡にはまだまだいろいろな解釈がありそうである。
昭和の時代を過ごした我々でも改めて振り返ると、懐かしいとともに新しい発見がありまだまだ「昭和」について思い巡らしてしまうのである。