第84回 タンゴに想うブエノスアイレス 〜薄命の聖女、エビータ〜

第84回 タンゴに想うブエノスアイレス 〜薄命の聖女、エビータ〜

 アルゼンチンタンゴを観てきました。

 バンドネオンを中心とした楽団が、渋い年配の男性歌手と3組の超絶技巧の素晴らしい男女のカップルを引き連れて、本場をしのぐようなパフォーマンスを魅せてくれました。

 

 タンゴを観るたびに想いだすのがブエノスアイレスに行った時のことです。もちろん、現地の情熱的なアルゼンチンタンゴはその舌を巻く足の技の素晴らしさと、哀愁とセクシーさが見事にマッチングした舞台には感激しましたが、元アルゼンチン大統領の妻エビータのことが頭に浮かんでしまうのです。

 

 「エビータ」は1996年に制作されたアメリカ映画で、アルゼンチンのファーストレディーをマドンナが演じたことでいろいろな意味で話題になった。

 

 エビータの本名はマリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロンという長い名前だが、愛称として国民から「エビータ」と呼ばれ、信奉者は「サンタ・エビータ(聖エビータ)と呼び、亡くなった現在でも絶大な人気がある。

 

 ブエノスアイレスは、南米旅行中に1泊2日しか滞在しなかった都市であるが、アルゼンチンタンゴのショーを観た翌日に最初にガイドに案内されたのが、ブエノスアイレスの山の手にある「レコレータ墓地」であった。

 

 1882年に開設されたこの墓地は、最も格式が高く栄誉と富のある人たち、歴代大統領や有名人などが埋葬されており、「歴史が凝縮された場所」ともいわれている。

 

 ガイドによれば一つの墓は大変高額で数億円から数十億円のものも珍しくないとのことで、まるでアメリカのビバリーヒルズが墓の街になったようである。

 6400の納骨堂がありそれらは墓というよりも歴史的建築群であり、建築家の卵が多く視察に来るという。

 

 その中で一番有名で真っ先に案内されたのがエビータの墓である。エビータは1919年にアルゼンチンの貧しい村ロス・トルドスで私生児として生まれ、15歳で家出をしてブエノスアイレスに住み、日系人カフェで女給をしながら、水着グラビアや広告モデルなどの仕事をしつつ、時には高級売春婦をすることもあったという。

 

 その後ラジオドラマの声優や映画女優として活躍し、1943年に、軍事政権の要職にあったフアン・ドミンゴ・ペロン大佐に出会いその愛人となる。1946年にはペロンが大統領に当選するとファーストレディーとなり、夫の地位をバックに積極的に政治に関わるようになった。

 

 そして女性の参政権を導入、労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設整備を「エバ・ペロン財団」により次々に実施し労働者階級の圧倒的な支持を受け、「エビータ」と愛称で呼ばれるアルゼンチンで最も影響力のある人物になった。

 しかし、彼女が下層階級の出身でその経歴や公私混同の行動などから、富裕層や軍部から大反発があったという。

 

 実はこの頃、日本は敗戦直後のひどい食料不足で国民が餓死寸前であった。しかし、中立国で日本と国交断絶をしていたにも関わらず、アメリカ以外の諸外国で日本に一番多く食料を送ったのがアルゼンチンであり、その中心となったのが「エバ・ペロン財団」であるとガイドが胸を張って話してくれた。

 

 精力的な活動をしたエビータであったが、1952年に33歳の若さで子宮がんにより突然に死去してしまう。葬儀には数十万人の人達がブエノスアイレスに参列し、涙ながらに別れを惜しんだという。

 遺体はその後エバーミング処理され、ペロン大統領が亡命したことにより、イタリアとスペインに遺体が移され20年以上経た1976年にようやく現在の「レコレータ墓地」に家族と一緒に眠ることができたのだ。

 

 貧困の少女時代から大統領夫人にのぼりつめたエビータの墓には、今でも参拝する人と花が絶えず、私が訪れた時もその墓の扉にはたくさんの花が手向けられていた。

 

 私はすぐ近くの「エビータ博物館」も訪れたが、その地でも彼女の人気の高さを再認識し、また2012年には没後60周年を記念して、アルゼンチンで100ペソのエビータの肖像が描かれた紙幣も発行されたこともあり、国民にいつまでも愛されている女性なのだなと実感した次第である。

 

 この博物館のあとにアルゼンチンタンゴの発祥の地であるポカ地区に行ったのだが、下町風で観光地化してはいるが、赤色や黄色に塗られた原色の建物が並んでそれなりの雰囲気があり楽しめた。

 

 ただ滞在時間が少なく、タンゴの相手として写真を撮らせてくれるエビータに似たアルゼンチン美女とツーショットができなかったことが、一番の心残りなのであった。