第70回 魅知の国ウズベキスタン 〜ここは本当にイスラムの国?〜

第70回 魅知の国ウズベキスタン 〜ここは本当にイスラムの国?〜

 ウズベキスタンというと中央アジアにあるというのは、おぼろげながら認知している人は多いかもしれないが、他の国との位置関係やまして国の情報など知っている人は、恐らく100人に一人もいないのではないか。もちろん私もほとんどその知識はなくいつもの野次馬根性で、「旅行は、なるべく今しか行けないところ」を優先して行くようにしているのでこの国に行ってみようと決めたのである。

 

 近くにアフガニスタンやイランなどがあり、ものすごく危ないところというイメージを持っている人が多いようで、「そんなことはない」と自分では思いながら、内心は少しだけ「もしかすると・・」などの思いが頭をよぎったのだが、やはり聞くと見るとは大違いということを実感させられた。

 

 仙台空港を飛び立ちウズベキスタン航空機が、サマルカンド空港に着いたのは9時間半後の現地時間18時半(時差マイナス4時間)であった。ちなみにウズベキスタンの首都はタシケントであり、青の都といわれるサマルカンドは600年前から繁栄したシルクロードの中心都市である。

 サマルカンド空港では日本政府の声掛けのツアーということで、空港の外には楽団の笛や太鼓とともに6人の美女軍団が民族衣装姿でにこやかに出迎えてくれた。これだけで単純な私は、いい旅になりそうだと同行した妻に言ったものだ。

 

 

砂漠地帯を行く

 ツアーの5日目にシルクロードの十字路として栄えた僧院を意味するブハラから、砂漠のオアシス都市ヒヴァへ行くためにキジルクム砂漠を突っ切って走る450キロメートルのバスの旅。

 出発して1時間ほどすると両側にまばらにあった民家が姿を消し、ガタガタの道を走りやがて少しはましになった道路を延々とバスは進んでいく。このキジルクム砂漠は砂漠というより土漠にちかく、赤茶けた岩や石や土がほとんどで山はなく、地平線がうすぼんやりとしているのが見えるだけである。そちこちに生えているペンペン草のような丈の低いラクダ草は根が30メートル位地中にはり、水分をとっており見かけとは大違いの生命力に感心する。

 赤い砂を意味するキジルクム砂漠は面積が30万㎢あり、その地下には金や豊富な天然ガスが眠っており、道中にもはるか遠くにガスの採掘施設のようなものが見えたこともあった。

 途中には360度なにもない場所でトイレ休憩となり、女性は車の右側全部、男性は道路を挟んで左側全部が天然トイレと指定される。土漠をまっすぐ走るハイウェーを時折ものすごいスピードで走る車の音を背後に受けながら、ほぼ全員が排出作業に専念する。

 それから2時間後、昼食はガソリンスタンドを併設する裏庭でナンと焼きたてのカバブをいただき、余った食事をやせこけた犬に与えたあと、再びバスに乗り込む。

 突然検問所のような建物があり、バスが徐行したがそれはウズベキスタンの中にはもう一つ「カラカル・パクスタン共和国」という自治州のような国があり、建前だけの検問所らしい。例えていうとイタリアの中のバチカン市国のような存在かもしれない。

 車中では最初は景色などを撮っていたが、何時間も同じ景色なのでやがてほぼ全員が夢の世界に入ってしまった。

 バスはやがてパミール高原に源流を発する中央アジアの大河アムダリア川をわたり、夕方暮れなずむ中カラクム砂漠の出入り口として繁栄した遺跡都市ヒヴァの旧市街地イチャン・カラへと入っていった。

 

 

「安全安心」かもしれない、愛想のよい国

 どこの国に行っても、最初はスリやかっぱらいや強盗など街の歩き方に注意を促されるものだが、ウクライナとロシア系のタチアナというガイドさんからは、一切そういう話しはなかった。

 実際にホテル周辺や観光地を歩いても胡散臭いような輩は見かけず、ハーレムのある建物の展望台で妻と眼下に見える街並みを観ていたら、現地の新婚さん風のカップルに一緒に写真を撮ってほしいと頼まれたことがあった。

 また、街中で女子高校生たちにはにかみながら一緒にスマホで写真を撮ってほしいと言われたりしたことも何度も経験したのだ。

 私たち夫婦がよっぽど珍しい顔をしていたのかどうか知らないが、旅先で現地の人々から声をかけられて写真を撮るというのは本当にまれなことであるので、たびだびそういうことがあってちょっと驚いてしまった。

 街を歩く人たちもイスラム圏特有のスカーフであるヒジャブを被っている若い女性はほとんどおらず、中にはミニスカート姿の女性も歩いていた。

 バサールなどを歩いていても、にこにこ笑って手を振る子供が多くその母親も柔らかな笑みを浮かべてくれる。

 家族でやっている土産物屋のヴァジラ とザリナのティーンの姉妹は、ジャパンセンターで日本語を習っているということで、大変に流暢な日本語を話しており2019年に日本に勉強に行く予定なのとキラキラした目で話していたのが、印象的であった。

 

 

ここは本当にイスラムの国?

 レストランでは、ビールだけではなく旧ソビエト連邦の影響かウオッカやワインはどこにでもおいてあり、町の売店でも売っておりどこでも飲むことができた。同行した70代のツアー客は朝昼晩とビール、ワイン、ウオッカを飲んでおりISが跋扈する中近東であれば、いくつ首があっても足りないのではと想像してしまった。

 また、カバブも羊肉、牛肉、豚肉と3本のセットが出てきた時には思わずのけぞってしまった。この国にはハラル規制はないのだろうかと他人事ながら心配になってしまう。

 各都市にある世界遺産の壮大荘厳なモスクやメドレセ(神学校)の建物の中には、必ずと言っていいほど土産物屋が入っていて、階段や欄干に絨毯を広げて「サアーッイランカネ」をやっている。日本でいえば法隆寺の建物の中に浅草の土産物屋が並んでいるようなものである。

 また、延々と続く砂漠を8時間以上バスで走っていた時には、道路工事中の男が手を振っていたこともあり、国全体は我々が思うような保守的な「イスラム教の国」ではなく、本来の開放的な明るいアラビアンナイトの世界を思わせた。

 

 

ソ連抑留の日本人の活躍

 首都タシケントではソ連に抑留された数百名の日本兵は、遠いこの地まで連れてこられて1945年から2年間ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場の建設に従事させられた。

 1966年のウズベキスタンの大地震の時には、市内の3分の2の建物が壊れたがこの建物はビクともしなかったと、現地では今でも語り継がれているという。ガイドのタチアナさんがこの近くをタクシーに乗った時に彼女がガイドとは知らずに運転手が「この劇場は日本人が造ったから地震でも壊れなかったのさ」と自慢げに話していたと我々に打ち明けてくれた。

 その近くのムスリム墓地には、この地に眠らざるをえなかった79名の日本人の墓地があり、近くのドイツ人墓地と違って、日本人墓地には訪れる人や日本人を埋葬した祖父の代からイスラム教徒によりいつも線香の煙で守られているという。

 

 

(付録)

ウズベキスタンのミニ知識

中心アジアの真ん中に位置しており、カザフスタン(友好国)、キルギス、タジキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタンに囲まれている。

国土は日本の1.2倍で人口は3000万人、30才以下は70%とこれからの国である。

金銀銅やエネルギー資源も多く特にガスが国土の60%の土地に埋蔵されている。

ソ連からの独立後は綿花を中心として小麦、野菜、ドライフルーツの生産も多い。

車はだいぶ走っているが、日本車は見かけずGMの車工場があるのでシボレーが多い。