第65回 昭和回想録その5 〜セピア色の少しこわい思い出〜

第65回 昭和回想録その5 〜セピア色の少しこわい思い出〜

 昭和の時代、特に戦後はセピア色がよく似合い、郷愁を誘う懐かしい時代ともいわれるが、私にとっては夕暮れの薄闇から出てくるような少しこわかったことも思い出す時代でもある。

 

 私が住んでいる街の近隣にある日本三大稲荷といわれている竹駒神社に親に連れられて行った時のことである。

 

 神社に行く途中に白装束に布の兵隊帽をかぶった「傷痍軍人」が松葉杖を脇にはさんで体を支えながら、アコーディオンをひいていた。

 その頃はお祭りや人の集まるような場所には時々見かけることがあったのだが、大概立っている足の片方は木の棒で義足代わりにしており、片手がない傷痍軍人はハーモニカを吹いていた。

 

 足元には戦争で負傷したので浄財を求める旨を書いた箱が置いてあり、その中には1円や5円紙幣がパラパラと入っていたが、私はその直視するのがはばかれるような立ち居姿の様子に少しおびえてしまい、彼らから離れるように小走りに歩いて通り過ぎた。

 それでも勇ましくも物悲しい軍歌の曲が耳に届き、その後も何度か目にすることがあったが、あまり遭遇したくない人達であった。

 

 戦争に行った父には「本当の軍人であれば、ああいうことはやらない。きっと交通事故にでもあってやっているのだろう」といわれたのだが、もちろん真意は定かではない。

 

 また、その神社の参道の途中には「原爆娘」という見世物小屋があり、その入り口のもぎりをやっている男が「原爆娘~、親の因果が子に祟り~、このようなあわれな姿になりました~」とおどろおどろしい口上で客寄せをやっていた。

 タコ娘やヘビ娘という見世物もあったのだが、さすがに「原爆娘」というのはあまりにも社会的に問題があるのだろう、その後は全く目にすることはなかった。

 もちろん、それらの見世物の内容は大人から聞いた話しではゾッとするものだったし、子供には見せる親はほとんどいなかったようで、私も見ていないがその後にその看板の恐ろしい絵が夢に出たことがあった。

 

 当時は日が暮れるまで外で遊びまわっていたが、時々家に帰るのが遅くなったりすると母や姉に「夕方遅くになると、人さらいにさらわれてサーカスに売られるぞおっ」と言われた。

 そしてサーカスのテーマ曲の「ジンタタータ♪ ジンタタ♪ ジンタタータータタ♪」のジンタ音がラジオなどで聞こえてきたりすると、「今日も運の悪い子供がサーカスに買われているのだなあ」と会ったこともない子供に同情心を抱いたりした。

 

 この頃は江戸川乱歩の怪人20面相が流行っていて、明智小五郎と少年団の活躍にわくわくしたものだ。少年向け小説だけでなくラジオドラマやテレビドラマや映画にもなり当時の少年達を大興奮させた。

 私もその一人で、いつか少年探偵団のように悪漢を懲らしめるようになりたいと思い、BDバッチ(少年探偵団メンバーだけが持っている特別のバッチ)を手に入れ、密かにその機会をうかがっていたのだがもちろん叶うことはなかった。

 反対に、人さらいや悪者に出会うことを考えると、本やドラマのように活躍はできないだろうと少し自己嫌悪になってしまうこともあった。

 

 近所のお寺の墓地の中ではうす暗くなると、仲間の子供たちとかくれんぼうや肝試しをしたこともあった。

 そのお寺の境内のそばには、無縁仏や古くなった墓を積み上げて数メートルの高さの小山のようになった場所があり、ある日そこで遊んでいたら壺のようなものを見つけた。

 それを開けてみると古銭がたくさん入っており、宝物かもしれないと皆で山分けしたのである。

 後から考えてみると、その壺は骨壺で三途の川の渡し賃として入れられたものかもしれないと後悔したのだが、後の祭りであった。

 

 昭和30年代前後はまだクーラーなどは一般家庭には普及しておらず、代わりに「怖いもの」で夏の暑さをしのいだのは、怪談映画の上映がやたらと多かったことでよくわかる。

 特に昭和30年代は毎年夏になると10本近くの怪談映画が出そろい、日本国中の人々の体温をマイナス1℃から2℃は下げさせたのではないかと思う。

 私は特に「ネコもの」いわゆる「化け猫」「怪猫」の映画にはいつも肝を冷やされたのだが、特に「入江たか子」の化け猫演技には心底恐ろしく、もしかすると少し漏らしてしまったかもしれない。

 

 そういう経験もあり、夜中に目が覚めて天井の板を見つめていると、化け猫が天井の隅に張り付いていたり、その木目が自分を見ているのではとか、トイレに行くと小窓から誰かが覗いたり、便器から手が出てきたりするのではないかと想像して、用足しもそこそこに夏なのに布団にもぐりこんでしまい大汗をかく時もあった。

 

 昭和の時代は、家族や近所、友人、学生や会社仲間など、お互いにおせっかいしながら、頑張った時もへこたれた時も、うれしい時も悲しい時も、楽しい時も怖い時も、同じ価値観をもって生きたような気がするので、今思い出すと居心地の良いセピア色の時代だったのかもしれないと、今思うのである。