第61回 昭和回想録その4 〜禁じられた遊び・愛のムチ〜
1950年代に上映されたフランス映画「禁じられた遊び」は少年と戦争孤児の少女が無垢の心で「お墓ごっこ」をする名作だが、その時分に我々昭和っこも今であったなら新聞沙汰になるような「禁じられた遊び」を平気でしたものでした。
禁じられた遊び
私は小学生の頃に小遣い稼ぎとして、工場で使う磁石を時々借りてきて、近所の道路などに落ちていた釘を拾い、スクラップ屋に売りに行き、十円になったらアイスや小判焼き、駄菓子などを買う軍資金にした。
釘は近くの魚屋が使った魚を入れた木箱を焼いた後に、その灰を道路に撒いたりするのでその中に混じっている釘を拾うのである。
また、自転車のスポークや缶詰のフタなどは、工場の研磨機や道具を使い手裏剣など危ないおもちゃにも加工したりして遊んでいた。
時々は東北本線が走っている線路に行き、長い釘をレールにおいて線路わきに待機し、汽車が通り過ぎ去った後に、つぶれて平らなナイフ状になったそれを回収して遊びの道具にもした。
線路にはよく遊びに行きレールに耳をあて、あとどの位で汽車が来るのかを近所の友達とあてっこしたり、線路の上に小石を置いてどんなふうに壊れるかを「実験」したりした。(これは絶対にマネしないように!!)
冬になると今では考えられない位の雪が降って、ひと冬に何度も竹スキーを近所の坂でやることができた。
竹スキーは半分に割った竹を火であぶり、先端に近い部分を少し曲げてその後にロウを塗り滑りをよくして使う。
冬休みの日に雪が降ったりすると、その道路に水をまき滑りやすいように特設スキー場を作るのだ。
うまくいくと次の朝は近所の子供らと滑りまくり、翌日も滑ろうと誓い合うのだ。
しかし、次の日の朝にそこに行ってみると、なんと練炭の燃えカスがあたり一面に撒いてあり滑られなくなっていたのだ。
近所のオニババ(恨み骨髄でそう呼んでしまった、ごめんなさい)が、歩いた人が転んでけがをしないように撒いたのだが、それには悪ガキ一同 がっくりしてしまった。
愛のムチ
体罰はもちろん良くない。ただ、中学生のあの当時に、今であればモンスターペアレントの怒りの炎に心身ともに焼かれてしまい、抹殺されかねない教師が何人いただろうか。
中学生の頃、休み時間に担任のあだ名が「ハリマオ」という、昔は珍しい長髪でヒゲ面の美術教師に悪友と共に宿直室に呼び出された。薄暗く狭い宿直室に入ると、そのハリマオが仁王のように立っていて、その背中からは炎がメラメラと噴き出ているのではないかと思う位のオーラを発していた。
「足を開いて歯を食いしばれ!」といわれ、何のことかわからなかったが、言われたとおりにしたらいきなり視界が揺らいで、一瞬目の前が金色に変わってビンタされたとわかったのは少しおいてからだった。
「○○先生の時間に騒いでいたそうだが、今後は絶対にやめるように!」とだけ言われ恩赦放免になった。
教室に戻ったら、皆に「ほっぺたに手形がついているがどうしたのか?」と聞かれ得意げに「ビンタを食らった」と返答したものだ。
ビンタされたのは美人の音楽の先生の授業時間に、私と悪友が子供心に少しでも気を引こうと、騒いでしまったのが原因のようだが、その先生への思慕はいっぺんに冷めてしまい、「堅物のハリマオも美人には弱いのだなあ」と変に納得してしまっただけで、先生たちに対しては恨みやつらみは全く抱くことはなかった。
昔、特に中学の頃は今でいう体罰を結構見かけた。英語のフチなし眼鏡をかけたあだ名が「カマキリ」という神経質な教師は、生徒が何かすると「精神棒」と称して竹棒で頭をゴツンとやることがあった。
「精神靴」では、生徒を正座させ先生が自分の革靴を脱いで、「この靴は悪いことをやった人間の頭に落ちていくのだ・・」と言って、その生徒の頭の上から落として反省を促すということも時々していた。
ただ我々もそれが日常なので、「少しこぶができた」などと少し自慢気に涙目でいう仲間もいたので、なかば面白がっていたような気がする。もちろん親から苦情が出たり、学校に来て訴えたりしたというのは聞いたことがなかった。
当時の男子生徒の間では「教師から一度もどつかれたことがない奴は一人前の中学生ではない」という暗黙のルールのようなものがあったような気がする。
平成の世の先生たちは「愛のムチ」を使うこともできず、大変な苦労をされていると、今つくづくと心から思うのである。