第40回 大震災日記 〜3.11の私的記録〜

第40回 大震災日記 〜3.11の私的記録〜

「星空とともに」という被災者からの星と震災にまつわるエピソードをもとにした仙台市天文台のプラネタリウム特別番組を先週見てきました。

 

2011年3月11日の東日本大震災の夜は、少し雪がちらつきしんしんと冷えた街中は灯りがまったくなく、近所の商店街の路地は少し入ると墨を塗ったように黒々としており、異世界に迷い込んだような気持になりました。空を見上げると満天の星が輝き、今までに見た星空とは比べ物にならないほどのまるで宇宙の中にいるようでした。

 

今回のブログは、その時分に書き留めていた日記の抜粋です。又、最後の方にも二つありますが、震災後にネット上にありました印象に残るツィートを最初に紹介します。

 

(ツィートその一)

募金箱の前にて幼稚園位の男の子と母親の会話。母「貯めてたのに本当にいいの?」子「3DS 我慢する。これで地震の人の家建てる。」と言いお年玉袋から五千円を寄付。母「偉いね。地震の人、これで寒くなくなるね。」男の子思わず号泣。後ろにいた私、大号泣。

 

3月11日金曜日 晴れ時々雪

 市内に打ち合わせに向かう途中、車のラジオからビービーという緊急放送を受信直後、車を止めると地面が波打つような揺れが数分続き、車がポンポン跳ねている。信号がほとんど消えメイン道路以外は車が全く動けず、会社に戻るのも無理と思い、割れたビルのガラスや避難の人々の間を何とか夕方に家にたどり着く。普段なら30分で行ける道が3時間以上かかってしまった。社員や知人と携帯やメールで連絡するもなかなか繋がらない。ラジオでは津波の被害情報が錯綜しているようで、ますます不安をかきたてる。夜空を見上げると停電のせいか、雪が少しちらつくのにものすごく透明感のある見たこともない星空だった。

 

3月12日土曜日 曇り晴れ時々雪

 昨日は最低気温が-2.5℃と冷え込む。昨日からの余震が何度も続き、とにかく心配で午前6時会社に着く。工場を廻り被害状況をデジカメに記録するが、出入り口の道路に人の大きさ位の穴が深く陥没していたのには驚いた。ぼつぼつと社員が出社し、家庭と会社の被害を確認する。社員十数人で片づけをしていたら、夕方に意外と早く電気が復旧する。ガスと水はいつ復旧するのか見通しが立たない。帰宅する社員に備蓄のお茶を配る。帰宅した後一人暮らししている高齢の叔父の家に自転車で行き無事を確認する。河北新報(地元の地方紙)が8ページだが今朝配達されたのには驚いた。

 

3月13日 日曜日 晴れ

 今日で震災から3日たった。マグニチュードはなんと日本史上最大の9.0という。宮城県の死者が一万人を超すらしいとの報道に愕然とする。「しおの花」(以前にやっていた讃岐うどん店)は昨日の午後から電気が回復し、全電化なので近隣の人々に温かいものを提供すべく、営業再開にこぎつけたが、大勢の方が来店し在庫が底をついてしまう。市内を自転車で廻り店をあけていた地元の八百屋や肉屋から材料を仕入れ、リュックに詰め込み店に届ける。

 

3月14日月曜日 曇り

 会社に出社してきたのは六十人位。ガソリンが手に入らず行動範囲がせばめられてつらい。明日からの復旧と計画出勤の予定を指示。社員旅行での韓国第四班が福島空港と山形経由でようやく帰国。仙台空港に駐車した11台の社員の車が全部津波で流されたらしい。名取市に住む親戚から無事の連絡ありホッとする。

 

3月18日金曜日 晴れ

 氷点下四℃と冷え込む。N社より二度目の支援物資を受け取る。感謝。当局から緊急輸送の許可証をとり、明日社員2名が新潟の魚沼に支援物資を受け取りに行くになった。道中の無事を祈る。

 

3月30日水曜日 晴れのち曇り

 石巻と気仙沼方面にN社のS氏と支援物資を持って行くが、やはりとてつもない状況で、道路のアスファルトもはがされており津波の爪痕が延々と続いている。街中で津波に流されながらもなんとか助かり、その時のけがで指を何本か失った社長にも会ったが、そういう壮絶な経験を何十万人もしていると思うと本当に胸が痛む。

 

4月7日木曜日 曇り

 昨日に続き2回目の炊き出しは若林体育館。熊本から冷凍車ではるばる来ていただいた方々に感謝。様子を見ながら明日の炊き出し予定の山元町山下中学校に事前打ち合わせに行く。夜、ガタガタとまたも大きな揺れがきた。震度6の地震で停電になってしまう。(この停電は翌朝には解消)早速管理者全員に緊急メールを出し状況把握に努める。

 

4月21日木曜日 晴れ

 今日の炊き出しは石巻市立北上小学校。ここは北上川が見える小高い場所にあり、近くには84人が犠牲になった大川小学校がある。小学校内はまだ衛星通信での電話しか利用できず、体育館の中には避難している方が大勢おり、その中の年輩の男の方に話を聞いた。「震災後ここに避難したが、電話も使えず冠水している中を翌日に腰まで浸かって助けを呼びに行ったが、水の冷たさには本当に往生した。」もう1か月以上経つのにまだまだ苦労されているようだ。瓦礫の中の道路を運転していた同行の社員の車のスピードがあまりにも遅いので「どうしたのか?」と聞いたら「この風景がつらくて・・・」と涙ぐんでいた。

 

この期間に遭遇したことや出会った人々のことなどまだまだありましたが、最後にツイートを二つ紹介します。

 

(ツィートその二)

今日、募金箱に金髪にピアスの若い兄ちゃんが万札数枚入れていた。そしてその友人に「ゲームなんていつでも買えるからな」と言っていたのが聞こえて私含め周りの人達も募金していた。人は見た目じゃないことを実感した。

 

(ツィートその三)

子供がお菓子を持ってレジに並んでいたけれど、順番が近くなり、レジを見て考え込み、レジ横にあった募金箱にお金を入れて、お菓子を棚に戻して出て行きました。店員さんがその子供の背中に向けてかけた、ありがとうございます、という声が震えてました。

 

* N社とはNCネットワーク様、全国から届いた支援物資を何度も届けていただきました。感謝

* 炊き出しは熊本の重光産業様と一緒に仙台市、山元町、石巻市など13か所6500食を被災者の皆さんに届けることができました。感謝