「痛!」と感じた時には遅かった、20年以上前のことでした。
私は怪我や病気など人の何倍も経験していると思うが、その時に遭遇した激痛は生涯で二番目の痛さでした。(一番目は又の機会に)
左手の薬指の第一関節のところにあるはずの指がなくなっていました。
そこからは、壊れた蛇口から水がこぼれるように真っ赤な血がどくどくと床に流れ落ちていたのです。会社でPC操作をしながら椅子を前にずらした時に、下の金具の間に指を入れそのままドスンと座ってしまったので、カッターで切り落としたような状態になってしまったのです。激痛のため吹き出る汗を拭いながら、小指の根元を輪ゴムで縛り、挟まっていた指をビニール袋にいれ病院に向かいました。すぐに救急車を呼べばよかったのですが、その時は大変に慌てていて頭に浮かばなかったのです。
会社の最年長の嘱託の方に運転してもらいましたが、あまりにも安全運転のために時間もだいぶかかってしまい、結局けがをしてから2時間後に三軒目の病院でようやく治療を受けることができました。入院してから二回手術をしたのですが、東北一と噂される名医に造形手術をしていただき、その道の人には「すばらしい手術だ」と美術品のように見られました。おかげで、通常だと巡り合えないカリスマドクターとも知り合うことができました。
退院後に入会したばかりの業界の分科会の見学旅行に参加したおり、まだ入ってして間もない私が先輩の皆さんに声をかけられました。それは私がまだ治療中の手に添木付の特大の包帯をしていたので、どうしたのかと聞かれたからなのです。おかげで、メンバーの方には私の名前を速く覚えてもらい、違和感なくその会に参加することができました。
又、会社役員は仕事中に怪我をしても労災の適用はなく、健康保険も労災保険も使うことができないという社会保険の矛盾も知ることができました。そのために役員は、別途保険に入って自己防衛手段も講じなければならないということも知りました。
「災い転じて福となす」の言葉のとおり、マイナスの状況に陥ったと自分で思ったら、その時にこそあらためて無心になり、「有り難う」と口に出すのが良いようです。そもそも「難(ナン)が有(アル)とき」に言う言葉がそれで、口に出すことにより不幸などが断ち切られるといいます。
「照顧脚下」という意味は、人はとかく自分のことは見えないが、他人のことはよく見える、他人の批判はできても自分の批判はできないとの意味です。
だいぶ以前に「くれない族」という若者たちが大量発生しました。意見を聴いてくれない、仕事を教えてくれない、声をかけてくれない、ああしてくれない、こうしてくれないと、してもらうことにばかり重要視している若者です。今ではその若者も中高年となり、さらにその伝統を現代の若者も継承している感があり、日本中が「くれない族」が席巻しているのではないかと思うときもあります。
他人を論ずるより自己をみつめなくてはならない、よそばかり見るのではなく、まず自分の足もとから見て行動するのが大事だと思います。否定の言葉は、自分の動きも後ろ向きになりがちです。その為には何かことがあったのなら、まず「ありがとう」の言葉をいっていったん自分を振り返ってみるといいでしょう。
今年入社した新入社員や働き盛りの中堅社員の方も、こつこつやっているパートさんも、もうすぐ還暦に届く大功労の社員の方も、もちろん役員の方も心や体が「痛い」時にはこの言葉をぜひ今すぐにでも使って「災い転じて福となす」となってほしいのです。