第21回 少し長い私のプロフィール その2 〜得意先上場会社の倒産・支払手形の廃止〜

 前回は40年以上前の海外の旅を途中でやめて、帰国することになったということまででしたが、今回はその続きとなります。

 

昭和48年~昭和60年 得意先上場会社の倒産、父の急逝

 

 帰国した理由は、父親の会社が取引していた上場会社の得意先が倒産して、月商の数倍の不渡り手形を抱える大変な事態になっていたからでした。

 

 私は旅の途中ではありましたが故郷にいったん戻り、家業を継いでいた兄と会社を存続させるべく連日新規得意先や新規の仕事を探す毎日でした。内心では、会社が落ち着いたらまた旅に行こうと考えていました。

 

 しかし、事態はそれほど甘くはありませんでした。

 

 なにしろとんでもない多額の借金を負ってしまい、資金繰りが火の車で朝に回収した手形をすぐ銀行に持って行き割引し、何とかその日をしのぎました。世間では、「あの会社は倒産するかもしれない」などの噂が頻繁にささやかれていたとのことでした。

 

 そのうち第一次石油危機のあとの好景気で別の得意先の業績のアップもあり、我々の会社の業績も次第に良くなってきました。

 

 しかし、体調を崩していた父親は昭和53年宮城県沖震災の年に急逝してしまい、結局は父親と一緒に仕事をしたのは3年ほどしかありませんでした。それも体調がすぐれなかったせいか、経営のことはほとんど教えてもらうことができませんでした。

 

 父親が亡くなったときは兄が30歳、私が28歳とまだ若かったのですが、工場長をやっていた叔父などと四苦八苦しながらも、なんとかその借金を返したのは昭和も60年になろうとしていた頃でした。

 

 

昭和60年~現在 不渡り手形、年商の数倍の借金、清く正しく美しく

 

 事業を引き継いだ後には、取引していた会社が倒産し数百万円の不渡りを経験したこともありました。倒産してから数週間後にその社長が、顔も服も汚れ風呂にもはいっていないようなホームレスのような身なりをして当社を訪れ、数万円の現金を爪の縁が黒くなっていた手で握りしめ「とりあえずはこれだけ返すので残りはもう少し待ってください」と頭を深々と下げられました。

 

 あまりにもその姿が気の毒なのでそのまま見送ったものです。その社長の消息はそれ以降知ることはありませんでした。

 

 そういう経験をして「倒産」だけは絶対にしないと心に誓ったことが、その後に自社手形を振り出さないようにしたきっかけでした。約束手形をなくす方法をいろいろな方に尋ねましたが、「自己資本力を増やす」とか「利益を上げていく」とか当たり前のことしか教えてもらえず、自分なりに具体的なやり方を暗中模索してそれから数年後にようやくそれを叶えることができました。

 

 先代社長であった私の父親が亡くなり、また仕事のアドバイスをしていただくような人が身近にいなかったせいか、私たちはまだ若かったせいか、我々兄弟は県外や市内の工業団地に工場を操業したり移転したりして、毎年のように借金と投資を繰り返しました。

 

 いつのまにか年商の数倍の借金ができてしまい、表面上は平気な顔をしていましたが、内心は肝が冷える思いでした。

 

 そして平成15年にはフィリピンに工場まで出してしまいましたが、良い社員や得意先にも恵まれ、やがて会社も借金が月商以下に減らすことができました。

 

 ようやく私は平成27年4月にて非常勤となって40年間の製造業をメインとした企業人生活を卒業することができました。

 

 製造業とは別に平成2年から友人がはじめたフードビジネス(洋食レストラン)を支援しましたが、その1年後に私が引き受けざるをえなくなり、休眠状態にあった別会社(現在のキョーワ・システム)にてやることになりました。

 

 その後は損害保険事業やラーメンFC店やパソコン教室、エンジニアリング事業、讃岐うどん店などを10年間から25年間経営いたしました。

 

 今ではそれらの事業も平成27年末にて終息し、もっと世の中に役に立つ感謝される仕事をやろうということで、パートナーと新規事業を立ち上げることになりました。そのモットーが「清く正しく美しく」なのです。

 

 それに併せてブログを発信しておりますので、今後もご覧になっていただきたいと思いますので、よろしくお願い致します。