第17回 「訊く」は一時の恥、「訊かぬ」は一生の恥

 「ここはどこでしょうか?」10年近く前に仙台市内のアーケード通りを一人で歩いていたら、年齢が七〇歳を少し越した上品そうなおばあさんに声をかけられた。「ここは中央通りですよ。」と答えたら、「ああ、そうですか~」と弱々しい返事。そのおばあさんがゆっくり去って行く後姿を見たら、どうも様子がおかしいので、あとを追って尋ねてみる。「どちらに行かれるんですか?」と私、「自分でもどこに行くかわからないの~」との答え。

 

 これはまずいということで、近くの雑貨屋さんにおばあさんを連れて行き、お金など取ったと思われると困るので、店の人に立ち会ってもらい持っていた小物入れを開けて、なにか住所や名前がわかるものがないか調べてみる。内科医院の診察券が入っていたので、その病院に電話で事情を説明し、今であれば個人保護法うんぬんで断られたかもしれないがやっと住所を教えてもらう。車の通る道まで行き近くのタクシーをつかまえて、運転手に片道分の運賃を支払い、なんとか頼みこみ家まで送ってもらうことにした。

 

 おばあさんは、「ここはどこ? 私は誰?」と朦朧としながらも「訊く」ことをしたので、そのまま行方不明や不慮の事故など事態が悪化しないですんだのではと私は思っている。

 

 「訊く」とは辞書を引くと「たずねて、答えを求める。問う。」とある。「聞く」は、「音・声を耳で感じとる。」とか「人の言うことを理解して、受け入れる。」である。同じ「きく」でもかたや能動的であり、かたや受動的と全く意味が違った言葉になる。

 

 我々は「きく」のほとんどが「聞く」になっていないだろうか?「聞く」ことは、いつもやっていることだがどうしても漫然と「聞き流す」ことで理解したつもりになってしまう。解らないことや疑問があれば、なるべく早く「訊く」かメモをとっておいて後で「訊く」なり調べるなりを必ずやると良い。

 

 現場での作業や不具合対策、改善作業、間接業務も含め本当は1日に1回や2回は必ず疑問に思ったりおかしいと感じたりすることがあるはずなのだ。それがないということは、「訊く耳」を持たなくなってしまっていることになる。一日一善ではないが、意識的に「訊く」ことをやってみることが大事だ。

 

 昔の逸話である。仲の良い二人の男がいた。山の中を歩いていたら、虎が近くに来た。懸命に逃げる途中に、片方の男が靴の紐をきっちり結び始めた。もう一人の男は、「そんなことをしても虎の走る速度にはかなわないさ。」とつぶやいた。しかし、その男は虎に食われてしまった。紐の男は「彼より速く走れば助かる。」と考えたのである。

 

 これは己に「訊く」ということ、つまり自問自答を早く実践した結果だ。実はこの話には別の意味もあるのだが、その解釈については、インターネットででも調べていただきたい。

 

 多くの人がよく訊かないで間違って覚えている典型的なことわざがある。

「情けは人のためならず」を「情けをかけることは、その人のためにならないからかけないほうが良い」と誤解している。本当の意味は「人に情けをかけることによって、巡り巡っていつかは自分のもとにも帰ってくるので、人には親切にしたほうが良い」ということである。

 

 そのほかにも「マゴにも衣装」とは「孫はどんなものを着せても可愛い」ではなく「馬子(身分の低いもの)でも良い衣装を着せればそれなりに見える」という意味であり、「檄を飛ばす」は「がんばれと励ます」ことではなく「自分の主張や考えを広く人々に知らせ同意を求める」ことである。又、「犬も歩けば棒に当たる」は2つの意味があるので面白い。

 

 子供は、なんでも訊いて成長する。「訊くは一時の恥、訊かぬは一生の恥」をきっと本能的に知っているのである。