リオ五輪の開会式をテレビで観戦しながら、1964年の東京五輪を思い出してしまった。そして競技最終日にマラソンに出場した円谷幸吉選手と君原健二選手のことも・・
半世紀前になるので、団塊の世代前の人はあまり知らないだろうが、当時その種目で銅メダルを獲得して一躍有名になった選手が円谷である。銅メダルとはいっても、初めての日本での五輪で当時は競技数が20競技163種目、リオ五輪(28競技306種目)と比べると種目数が今の半分くらいでもあり、最終日の花形の競技でメダルを獲ったというのは、とんでもない出来事だったのである。
(追記) タイトル写真のアサヒグラフの増刊号は、だいぶくたびれましたが当時に私が買って所蔵しているものです。
円谷は福島県須賀川出身の陸上自衛官で腰痛に悩まされながらも東京五輪陸上競技種目でただ一つのメダルを獲得したのである。当時は君原健二という大変期待された選手がおり、円谷はダークホース的な存在であった。蛇足だがその時のマラソンの金メダルはエチオピアの無敵の裸足のランナーといわれた鉄人アベベビキラである。その後、四年後のメキシコ五輪に向けて円谷と君原には更なる上のメダルの期待が世間からかかるのである。
君原は北九州の雑貨屋の息子で、走ることだけが取り柄の子供であったそうだ。彼はマイペースで、東京五輪の前も「メダルの期待は迷惑だ」と公言していた。残念ながら体調を崩して八位に終わったが、円谷との良きライバル関係により自他ともにメキシコでの活躍を期待されていた。それでも東京五輪に惨敗したショックで一時はマラソンを離れたのだが、その後復帰を果たしてメキシコに挑むのである。
一方、円谷は指導者や上官との葛藤、腰痛の再発や婚約者とのことなどで、悩み多き人生となり1968年1月(メキシコ五輪の年)にカミソリで頸動脈を切り27歳の生涯を終えたのである。その時に残した父母兄弟親戚に宛てた遺書には、その心情の苦しさが感謝の意と同時に残されており世間の人々の涙を誘った。
「父上様母上様 三日とろろ美味しゅうございました。干し柿 もちも 美味しゅうございました。
(中略)
父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許しください。
気が安まることもなく御苦労、ご心配をお掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。」
円谷の死後、この悲劇の教訓をもとに日本の五輪委員会などは出場選手へのメンタルサポートを実施するようになったという。
君原が次に走った1968年のメキシコ五輪のマラソン競技は、ライバル円谷の意思を見事に継いて銀メダルを獲得し日本国民を熱狂させた。さらにその4年後のミュンヘン五輪にも出場し5位入賞という日本人最高の成績だった。いまであれば、マラソン五輪三大会連続入賞という、とんでもない記録を打ち立てた君原であるが、一番の誇れる記録は、引退までに35回出場したマラソンを一度も棄権をしなかったことだという。
この二人のライバル関係は我々の人生にも置き換えられる生き様ではないだろうか。切磋琢磨の良いライバル関係は、スポーツはもちろん人や企業、国の間でも必ずや必要ではないだろうか。
君原は1966年度のボストンマラソンに優勝し、今年2016年4月の同大会に特別招待で出走して元気な姿をみせた。ちなみに君原は引退後もフルマラソンにときおり出場し、この大会もいれ74回目の完走という。
そして、君原は今でも毎年円谷の墓前に好物のビールをかけることが習慣になっているという。
(追記2) 後年に、円谷幸吉の心情を綴った「一人の道」という曲をピンクピクルスというグループが哀切を込めて歌っているので、YouTubeなどで一度聞かれることをお勧めします。