第7回 飲食業四半世紀の経験…

 製造業の傍ら、昨年12月まで飲食店をやっていました。平成2年からなので25年間におよぶ長い期間でした。きっかけは知人のレストラン開業を支援したことでしたが、ある事情で私がやらなければならない事態になり、洋食レストランの後にラーメン店やさぬきうどん店などをやりました。

 

 製造業一筋にやってきたせいか、飲食店をはじめての驚きはやはり「ひと」に関わることが多かったのです。

 

 売り上げをごまかして逃げられたり、居直られたりしたことも何度かあり、料理長が無断で休んで店が開けなくなったりしたこともあり、よく胃が悪くならなかったのだと、自分で感心したりもしました。

 

その他にも、アクシデントはいろいろとありました。

 

 夜遅くラーメン屋の女性店長から「ラーメンとビールを2本飲んだ客が、金がないがもう1本飲ませたら必ず明日支払うといっているので、どうしたらいいか?」と電話がかかってきたことがありました。

 

 また朝早くに「昨晩食べたラーメンに虫が入っていたと、今朝客から言われたが、どうしたらいいのか?」というのもありました。

 

 「昨日、餃子を食べたら腹が痛くなった、保健所に行って調べてもらったが悪い菌は見つからなかったが、店のせいだ」と言われたがその対処方法は?

 

 などなど、そのたびに指示をだし、内心は「なんと理不尽な・・・」と思いましたが、今は少し笑える思い出になっています。

 

その中で、出会い?もいろいろあり、今回想するとなかなかに面白く驚いた経験をしたと思っています。

 

 ラーメン屋をはじめて数年後でしょうか、店長を任せていた女性から「専門学校のアルバイトのA君とB子さんが卒業したら結婚するそうだ」という報告をうけて驚いたものです。私もその二人はもちろん顔も知っていましたが、まだ幼く子供のような学生でした。

 

 もしも、私が店をやらなかったら出会わない二人、同じ時期に雇わなかったらやはり出会わない二人、卒業してから結婚して子供もできたと聞いたのはアルバイトを辞めてから数年後でした。その後は幸せになったのか、それとも・・・と思いましたが、最近確認したら幸せに暮らしているとのこと。

 

又、C君の件も驚いたものです。

 

 専門学校の在学中に店でアルバイトをして、卒業するので今日でやめるという日に私は今までの労苦をねぎらうということで、その男子学生と二人で居酒屋に繰り出したものです。調子に乗った私は社会勉強と称して、スナックにも連れて行きました。その日はいい気分で「社会に出てからも頑張れよ!」といって別れたのです。

 

ところが、後日に店長からの一言に愕然としました。

 

「彼は卒業した後に黒服になった・・」

 

 B君は専門学校で習ったことを社会に役立てるということで、卒業したはずなのです。店長が言うのには、私が最後の日に連れて行った「夜の世界」に憧れてしまい、その仕事に行ってしまったとのことです。前途ある青少年の道を曲げてしまったとの後悔が頭の中をよぎりました。「いやいや彼はいずれそういう道に行く運命なのだ・・」と自分に無理やり言い聞かせたのですが・・・

 

 中国人やモンゴル人もたくさん雇いましたが、25年間で延べ50人くらいになるでしょうか。全部が学生ですが、東北大学の留学生や語学学校に通っている学生などで、中には店を辞めた後に連絡が来て出世した中国人もいました。

 

 陳君(仮名)は卒業した後に食品関係の貿易会社を起こし、数年後には中国にいる両親を日本に招待してだいぶ羽振りの良い生活を東京でしているようでした。後日に私に連絡があり東北で生産している「ほや」を数十トンほしいがどこか教えてもらえないかという連絡があったこともあります。

 

 又、李君(仮名)は日本のある電子部品の技術系の管理職になり、私の前職の会社との関わりをもったこともありました。

 

 飲食店をやって一番よかったのは、東日本大震災のときに炊き出しのボランティアをやれたことでした。ラーメン事業は熊本のFC店でしたが、震災後すぐ本部の社長が陣頭指揮をして仙台まではるばる冷凍車に食材を積み込み、4月初めから述べ13回6500食を被災地支援として提供することができました。

 

 悪いことはいい思い出に、良いことは楽しい思い出になり、いろいろな良い人とも大勢知り合いになりました。

 

 製造業をやりながらでしたが、この25年間の経験はいろいろと本業にも役に立ったのではないかと今では確信しているのです。