第4回 スギハラさんの話

 6月7日にイスラエルのネタニヤという都市で、ある通りを「スギハラチウネ通り」と命名したとのニュースを見て8年前にリトアニアに行ったときのことを思い出しました。

 

 また、昨年末には「杉原千畝」という映画が上映され、スギハラさんについては今さらとは思いますが、ご紹介したいと思います。

 

 下記の雑文はその時分に書いたものです。

 

 

2008年10月記

 

 同行者の方から「杉原さんの奥さんが昨日亡くなったそうですよ。」と言われたのは今年(2008年)10月9日にリトアニアの首都ビルニュスの小寒い空港に降り立って間もなくだった。「えっ大変な偶然ですね。」と私は言って改めて杉原千畝氏の「命のビザ」を想った。あの東洋のシンドラーといわれる人物、その生涯最大の出来事を一緒に経験した杉原幸子(ユキコ)さんの天寿全うの日に、その地にいるという偶然に驚いてしまった。

 

 1940年7月27日の朝、リトアニアカナウスの日本領事館の杉原領事代理は、建物の周りに人の群れが押し寄せているのを見た。それはナチスに迫害を受けていたユダヤ難民で、日本経由でアメリカなどに逃げようとして、通過ビザを求めてきた人達だった。すでに欧州各国はドイツに敗れ、逃れる道はシベリア日本経由しかなかった。杉原は外務省にビザ発行の許可を何度も求めたが、回答は「否」。日本領事館にも8月の退去命令が出て撤収の期限がせまってきている。杉原は苦悩しながらもビザを無許可で発行することを決断する。それをユダヤ人に告げた時の様子を幸子さんは次のように書いている。

 

 

杉原幸子著「六千人の命のビザ」より

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「ビザを発給すると告げたその時、人々の表情には電気が走ったようでした。一瞬の沈黙とその後のどよめき。抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを抑えきれない母親・・・」

 

 それから1カ月以上、杉原は昼食も取らず朝から夜までビザを書き続けたといいます。ソ連から何度も退去勧告がきて、ホテルへ移りそれでもビザを書き、ベルリン行きの列車に乗り込んだが、ここにもビザを求めて人々が押し掛けた。窓から身を乗り出しながらも杉原はビザを書き続けたが、ついに汽車が走りだした。

 

 「許してください。私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています。」と言葉を残す。「スギハァラ、私たちはあなたを忘れません。もう1度あなたにお会いしますよ。」列車と並んで泣きながら走ってきた人が、見えなくなるまで何度も叫び続けました。

 

 「走り出づる列車の窓に縋りくる 手に渡さるる命のビザは」

 

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 このビザにより助かった人は家族を含め六千人以上もおり、その子孫なども含めると今は数万人ではといわれている。

 

 敗戦後、日本に戻った杉原は外務省を退職させられた。1968年、ビザの発給を受けた元ユダヤ人難民の一人であるニシュリとイスラエル大使館で28年ぶりに再会し、イスラエルより勲章を受け、その善意の行動が日本で知られるようになった。その後、晩年の1年前の1985年にイスラエル政府から、日本人で初めての「諸国民の中の正義の人賞」を受賞したり、イスラエルの切手になったりしている。

 

 私が行ったリトアニアの首都ビルニュスには、杉原氏の記念碑やスギハラ通りという地名もあり、領事館があったカウナス市には杉原記念館もあり、その善行が称えられている。

 

 リトアニアでのガイドをしてくれたビタ氏は「リトアニア人はユダヤ人をあまり好きではない」と言っていたのを聞き、少しほろ苦い思いをした。それでも杉原の行為はリトアニア人にも賞賛されているのだ。

今回は2度目のリトアニア訪問であったが、そういう歴史もあったのだ、いうことを再認識もできました。

 

 94歳の天寿を全うした杉原幸子さんにあらためて合掌。

 杉原幸子さんは、ちなみに岩手の遠野市の出身だそうです。

 

書籍画像 ©大正出版 「六千人の命のビザ」杉原幸子 著 ISBN4-8117-0307-3 C0023