第204回 迷宮の国モロッコ 〜肝を冷やした某日〜

第204回 迷宮の国モロッコ 〜肝を冷やした某日〜

今一番怖いというのは何かと聞かれれば、新型コロナをその一つにあげるというシルバー世代は多いでしょう。

我々の年代では人生を過ごし振り返えると、怖かった経験をしたことが幾つもありますが、私の大好きな旅でも肝を冷やしたことが結構あります。

しかし、旅の場合は新型コロナと違って、その時のことを思いだすと懐かしい出来事や笑い話に変わっていることが多いのではないでしょうか。

そういう旅の中で50年近く前のモロッコでは、忘我混沌、狂瀾怒濤、七転八倒、支離滅裂、物情騒然、阿鼻叫喚という冷や汗ものの旅を経験しました。

 

1974年10月モロッコにて 肝を冷やした某日

私を含む日本人の5人がバスから降り立った場所は、モロッコ北部のフェスから中央部アトラス山脈丘陵地に位置するマラケシュに向かう途中の土埃が舞う道路だった。

 

某日4日前

3組5人のバックパーカーの日本人が旅の途中に知り合い、モロッコのバザールで有名なマラケシュへ行こうかと決めたのは、スペインのアルヘシラスからジブラルタル海峡を挟むアフリカのスペイン領セウタへ向かう船の中だった。

港町セウタからバスでモロッコに入る国境を通る時の検査は予想外に厳しく、我々日本人だけポリスや役人に一人ずつ個室に入れられ、何度もリュックの中身や持ち物の検査や質問を受け、結局2時間近くもかかってしまい、せっかく乗ったバスにも置いてけぼりされてしまった。

しかたなくその日は、国境からモロッコ側に入ってほど近いテトゥワンのバス待合所で夜明かしをすることにした。

 

某日3日前

今日の夜行バスが満員の為に翌朝の便に変更し時間があったので、メジナ(カスバともいう)を探索することにする。

メジナは迷路のように入り組んでいて、3メートルほどの道幅の両側には所狭しと露店が並び、我々はやっと一列で通るのだがそれでも人とぶつかりながら歩かねばならない。

押し合いへし合いのそんな狭い道に袋をてんこ盛りにした荷車のロバやリヤカー引きが、人とぶつからずに動きまわっている。

そして道を行きかうのは、頭に何かを乗せて大声を張り上げる行商人、ジュラバ(モロッコのオッサン用のワンピース)を着ている同じ顔にしか見えない髭の濃い男たち、黒のヒジャーブ(スカーフ)をまとい眼だけしか出していない女たちだ。

路上には乾いたのと落下したばかりの牛馬の糞尿が散乱しており、その臭いに加えなにかの香辛料や人いきれが、混然一体となって鼻腔を襲ってくる。

少し広い道路に出ると、大人も子供も「カラテ、ジャポネ、チノ」などと叫んだり構えたりしながら我々を取り囲むが、ブルースリーの映画が流行っていたせいだろうと納得。

それでもメジナの中を迷いながらも、なんとかバスの待合所にたどり着くことができた。

そこで仮眠することにしたが、群がる土産売りや強制ガイド希望の子供たちに朝までへばり付かれて一睡もできなかった。

 

某日2日前

ほとんど眠られなかったが朝7時30分発のバスに乗り込みフェスを目指す。  

廃車寸前のようなバスは、荒涼とした山々の間をぬって進み、車窓からはジュラバの男がロバに乗っているのを見かけるが、人家がまったく見当たらないのでどこへ行くのか他人事ながら気にかかる。

バスの中は固い椅子とつくだ煮状態での満員満席だが、1時間ごとに休憩があるのでなんとか一息を付き、バスが停まると360度ある土漠のトイレへ乗客が散らばる。

フェスには6時間かけて到着し、目的地マラケシュへのバスに乗り継ごうとしたが、出発は翌日の夜中3時というので、睡眠不足のため近くの安宿で休むことにする。

 

肝を冷やした某日

モロッコに入って4日目、夜中の2時前に起きマラケシュ行きの長距離乗り合いバスに乗り込み、少し眠ろうとするも冷え込みが厳しく隙間風も入り震えで眠れない。

それでも車内でようやくウトウトしていたら突然バスが止まり、数人のカーキ色の制服を着た兵士が乗り込み銃を向けられ、バスを降ろされたのだ。

道路には車が強制突破できないように、ギザギザした鉄製の障害物が置いてある。

バスの中の乗客は降ろされた日本人5名を、興味深そうに不安そうに窓から眺めている。

銃を構えられたままパスポートを入念に調べられ、荷物も隅々までほじくり返され、太陽が情け容赦なく照りつく強烈な暑さ、そして兵士の銃が暴発して撃たれたらと思うと、体の表面は熱く肝は冷え首筋は脂汗が流れて止まらない。

兵士たちはポリスのようにはほとんど喋らないので、かえってそれが不気味で体がこわばってしまう。

そのうちに、無言で腕を振ってバスに戻るようにうながされ、脱力感と安心感で社内の椅子にへたり込みながら腰かける。

10時間かけてようやく着いたマラケシュのバスの中は、床はゲロとツバでドロドロ、網棚からは牛の頭や部位の肉汁が流れ、とてもバスの中とは思えないような有様だったがとにかく無事着いたことにほっとしたものだ。

 

着いて間もなくわかったことは、首都ラバトでOAPECアラブ石油輸出国機構の会議があり、その時代に世界を騒がせていた日本赤軍がテロを計画しているかもしれないということで、モロッコでは若い日本人の旅行者を厳重取締りしていたというのだ。

特に海岸沿いに汽車で西に向かっていたバックパーカーはほとんどが警察の取り調べを受け、数日間留置所に拘留された人もいたという。

我々はあまりツーリストが選ばない内陸をバスで旅をしたために、その難を逃れたようだということが後で知ったことであった。

 

現在での世界情勢や新型コロナ禍、そして年齢的にもこのような旅はもう2度とできないのではと、私の胸中には少し物寂しいような思いが込みあげてきてしまうのである。