第184回 ウズベキスタン夢紀行 前編 〜「進撃の巨人」の街〜

第184回 ウズベキスタン夢紀行 前編 〜「進撃の巨人」の街〜

 「奈落の底」という言葉が頭をよぎったのは、ミナレット(尖塔)というイスラムモスクに付属する高い塔のてっぺんでのことだった。

 

 闇雲に登ってきた螺旋階段だが改めて見てみると、白く削り出したような壁の狭い穴の中に石段が落ち込んでいて、数メートル先は真っ暗な深淵が口を開けて獲物を待ち受けているようであった。

 

 ミナレットのあるのは、中央アジアに位置するウズベキスタン共和国の西方、トルクメニスタンに近い国境に位置する16世紀初頭から20世紀初頭まで存在したヒヴァ・ハン国の首都であったヒヴァという都市である。

 

 ウズベキスタンは世界に2つだけという二重内陸国、海に行くまでに国境を2回通らなければならない、という特異な場所に位置しているというのはあまり知られていない。

 

 ヒヴァが発展したのは16世紀であり、東西シルクロードのオアシスとして栄えた隊商の都であるが、それよりはるか昔の紀元1世紀には街がかたちをなしていたという。

 

 イチャン・カラ(旧市街)という城壁に囲われた市街地は、博物館都市と称されるほど昔の宮殿やモスクや市街地の形態がそのまま残っており、ウズベキスタンでは1990年に初めてユネスコの世界遺産に登録された。

 中央アジアと西アジアで幾つも点在していたイチャン・カラが、奇跡的にほぼ完全な状態に保たれているのはこのヒヴァだけなのだ。

 

 イチャン・カラは高さ約10m、東西450m、南北650mの城壁の内側に広がっており、一部は崩れかけてはいるがその迫力あるたたずまいは、アニメの「進撃の巨人」の世界にでも迷い込んだような気持にさせる。

 

 外側の地区はディチャン・カラといって、さらに街を防護するための城壁が二重に囲われており、主に職人たちが住んでいたそうである。

 

 フリータイムを利用して私は妻と一緒に城壁の門をくぐり抜け、イチャン・カラを守る城壁を廻ってみることにした。その途中のマーケットでは荷車や砂で覆われた地べたにシートを敷いただけの上に、雑貨品や缶詰や色とりどりの原色に近い果物や野菜がてんこ盛りに所狭しに並べられて売っていた。

 売り子の民族スカーフを被った農民らしい女性たちは、人見知りなのか他のマーケットのように声がけするでもなく、通りゆく客を静かに見つめているだけである。

  

 少し歩いていくと奇妙なものがあるなと思って近くに寄ってみると、ロバの足を50㎝ほどに切断して3本組み合わせ三脚状にしたものだった。

 椅子にでもするのかなあと思っていたら、傍らを乾いた砂の混じった風の中をロバに荷車をひかせた少年が、弟らしき幼い子供らを乗せて過ぎ去っていった。

 あのロバも散々働かされた後に、椅子になってまた人間を乗せるのだなあとロバが少し気の毒になってしまった。

 

 城壁の外は土漠の荒れ地が広がっていて、黄土色の舗装していない道路を時おりトラックが砂埃をたてて通り過ぎていく。

 埃っぽい景色の向こうには、城壁内とは違った素朴なホテルや民家らしき建物があり、この地区がディチャン・カラのようだ。

 なだらかに傾斜した黄褐色の城壁には、高校生くらいの子供たちが数人登り降りしていて、途中でそそり立つ城壁の壁を残念そうに見つめていた。

 

 イチャン・カラを囲む城壁を廻り終わる頃に、南の城門の土台に西日を受けながら何をすることもなく、置物のように座っている中年の男と民族服を着ている老人がいた。目があったら手招きされたので寄ってみる。

 なにか言われたが、おそらく「どこから来たのか?」と問われたようなので、「ジャパン」と言ったが、分かったのかどうか・・・

 記念に写真だけは撮ったのだが、後で見てみると間に座った私だけが笑っていて、二人の表情は真面目な顔をした肖像画のようであった。

 

 砂漠に囲まれているがヒヴァのイチャン・カラには、20のモスクとメドレセ(神学校)、6つのミナレットがその広くないエリアに建築されており、日本でいえば小京都のようでもある。

 街中でカルタ・ミナルという巨大でずんぐりした未完成のミナレットが、つるりとした光沢と青を基調とした繊細な模様が美しく思わず頬ずりをしたくなる。

 この建物は、直径144m、高さ26mの円柱の形をしているが、1852年に着工したが建設を命じたヒヴァ最後の大臣の戦死により中断してしまったので、上の方には鉄筋らしきものが顔を出している。

 本来は90mの高さを予定していたというので完成していたら、さながらバベルの塔のようであったのではと思いを巡らす。

 また、ジュマ・モスクという内装が木造りで280本の彫刻された柱が並ぶ多柱式建築の大変に珍しい建造物がある。10世紀に建てられ19世紀まで修復改造されて現在の形になったというから、150年で完成予定の スペインバルセロナのサクラダファミリアを凌ぐ何倍もの歳月を要したモスクである。

 

 「太陽の国」と呼ばれたホルムズ地方のこの中心都市には、南東のブハラからキジルクム砂漠を我々の乗ったバスで450kmの長旅をしてきたが、確かにそれだけに「来た甲斐」があった。

 

後編 ~ミナレットの恐怖~に続く