第178回 昭和回想録その18 〜学生時代のOB〜

第178回 昭和回想録その18 〜学生時代のOB〜

 「学生時代」というとペギー葉山の歌が思いだされるが、私が頭に浮かぶ学生時代の歌というと真っ先に「我が良き友よ」である。

 この曲は作詞作曲が吉田拓郎で歌ったのは、かまやつひろし、「♪下駄をならして奴が来る~ 腰に手ぬぐいぶら下げて~♫」という歌詞ではじまるこの歌を聴くと、バンカラな高校時代と個性的な友人知人先輩を得た大学時代を思いだしてしまう。

 

 高校時代の3年間は、学生服に学帽そして腰には手拭いをぶら下げ、10㎞近くの道のりを春夏秋冬、下駄で自転車通学していた。

 そういう習慣だったせいか、大学にも入学当初は下駄を履いて行った。ところが、校舎が鉄筋コンクリートで通路や教室に下駄の音が響いてしまい、さすがにまずいということで数日後からは運動靴に履き替えた。

 

 大学に入学して入ったクラブは、ワンダーフォーゲル部とハイキング部をミックスしたような旅系のユースホステルクラブというものであった。

 女子も少し在籍しているのだがどちらかというと男子系で、新入生歓迎会は街の居酒屋、今の時代であれば完全にアウトであろうという強烈な飲み会が、伝統的に引き継がれていた。

 その地獄めぐりのような宴会が開かれるのは、今はもう無くなった仙台の名門大衆居酒屋に君臨していた「朝日屋」、いつもの畳敷の2階大宴会場で「新入生は吐くまで飲ませるべし」という恐ろしい鉄則があった。

 私もご多分にもれず初めての歓迎会では、日本酒を中心にとっくりの大攻勢にさらされたが、免疫体質のせいかなんとか撃沈をまぬがれた。しかし、数人の同期の新入生は次々に陥落沈没してHEDOの海に沈んでいった。

 

 続いての新入生歓迎行事は、蔵王山麓の長老湖から東北本線白石駅までの20kmの山道を歩いて走破するというものであった。

 それは新入生の1年生を2年生が先導していくことになっており、私は2回歩いたのだが入学した当時は体がなまっており、翌日に猛烈に足のあちこちが痛くなったのを覚えている。

 ただやはりこういう行事は一体感を育むのには良い手段の一つであることを、身に染みて実感することができた。社会に出てからも教育をやる立場になって、座学だけではなく汗を流すことや態度訓練なども取り入れるようになったのは、学生時代の経験があったのかもしれない。

 

 また、クラブの先輩には豪傑や奇人変人の輩がいたようだ。「いたようだ」というのは、50年前の記憶なので話をした先輩がその当事者なのか、はたまたその先輩なのかは定かではないからだ。

 ここから先は少し下品な話しもあるので、その手が苦手な方は飛ばしていただきたい。

 

A先輩の話し

「知り合いの話しさ、ある大学の舗装していない無料の駐車場に、そいつは一晩かけてラインを引いたんだ。そして次の朝に車で来た連中に『今日から有料になったので、駐車料金お願いします』と言って稼いだことがあったそうだ。それからどうなったのかはわかんねえけどな」

 

B先輩の話し

「クラブの合宿した時のことだ、数人の新入生が寝静まってからパンツを脱がせ、奴らの一物にヒモを結んでつなぐのさ。そして目には赤いセロハンを貼ってから、夜中に電灯を点けてバケツをたたいて『火事だぞ~!』とたたき起こす。奴らは目の前が真っ赤になってるもんだから、右往左往するもアレがヒモでつながっているので『イタタタッ!』と大騒ぎさ」

 

C先輩の話し

「やはりクラブの合宿の時に、爆睡している新入生のパンツを下げるんだ。そしてケツに味噌(仙台味噌は赤)を塗りつける。次の朝にその後輩が布団から出てくる時に、情けない顔をしてケツをもじもじさせながら起きてくるんだぜ」

 

D先輩の話し

「東京の山手線に七輪と秋刀魚を持ち込んで、焼いて食ったという先輩がいたそうだぜ」

 

 どの話も真偽のほどは分からないが、突拍子もないことをやる先輩たちが昭和の時代には存在していたというのは確かである。

 

 そして、学生時代に巡りあったクラブの先輩や同輩そして後輩の人々の「卒業後」は、知り合えた数だけその人生があるものだなあと、この齢になり実感してしまう。

 

 クラブOB同士で結婚し幸せに暮らしている先輩夫婦や、定年まで勤め上げその後に地域のボランティア活動の中心として頑張っている先輩、東京キッドブラザースという劇団で大道具の責任者として欧州公演を成功させた先輩などなど・・

 同級生では、文系を卒業し特技のトランペット片手に一旗揚げると言って上京して行った友、彼は今では帰省して家業の老舗和菓子屋のおやじになっている。外資系の会社の支社長になり世界を股にかけて活躍した友、県内のある町の町長になり東日本大震災の復興に尽力した友などなど・・

 

 中には不幸な出来事に遭遇してしまったクラブOBもいて、やるせない思いになるときがある。

 二人ともOBで結婚後に奥さんが妊娠中、交通事故で亡くなってしまい途方に暮れていた先輩、40歳代で中学校の教頭先生になったとたんに車で事故死してしまった同輩、30歳代で妻子を残し病死した後輩。

 

 数年前までは2年に1回位の頻度でクラブのOB会があり参加していたが、音頭をとっていた3年上級の先輩が昨年の秋に急逝した。

 先輩夫婦の御亭主の方だったが、お二人とも大変に懇意にしていたこともあり、告別式の遺影を見ながらその先輩と共に昭和の時代が、遠くに行ってしまったような思いを持ってしまった。