第146回 「国分町」栄枯衰退と中小企業

第146回 「国分町」栄枯衰退と中小企業

 東北最大の歓楽街といえば仙台市の国分町、現在は飲食店が3000軒あるといわれているが、バブルの時代は5000軒あったとも聞いている。

 

 昭和40年代以前、国分町は商業地であり知人の医療機器関係の会社もここに拠点をおいていた。その会社も飲食店が増えるにつれて自社は郊外に移転し、国分町の土地をビルに建て替えて飲食のテナントを入れるようになった。

 知人にはそのビルに飲食店が入る時に招待されたことがあった。その頃から当地が歓楽街へと変貌する黎明期だったようだ。

 

 高級クラブや高級割烹店などはほとんど足を踏み入れたことがない私だが、ママが1人で切り盛りしながらたまにアルバイトの女性を入れながらやっている、所謂スナックには行くことがあった。

 国分町のほとんどのそういう店は中小企業と同じ小規模なオーナー経営が主流なので、無意識になにか通じるものを感じていたのかもしれない。

 そこで今までに見聞きした何軒かのスナックの遍歴を振り返り、中小企業経営者の生きざまと共通点があることを紹介したい。

 

 30年位前に私が地元の病院に入院し1ヶ月ほど経ったころ、病室にある入院患者が入ってきた。私は手術をして間もなくだったのであまり体調がよくなかったが、そのパジャマを着た女性を見て驚いてしまった。

 

 私がたまに顔を出していたスナックの女性だったのである。彼女はやはり入院していて、手術も終わりもうすぐ退院なので暇つぶしに院内を散歩していたら、たまたま私が同じ病院に入っていたことを知り見舞いの果物を持って来てくれたのだ。

 その数か月後に彼女からあるお願いをされた。今度独立して店を開きたいので、少し融通してくれないかと内容であった。彼女は教師をやっていた私の叔母の教え子だったこともあり、美人ではないし小太りだが性格は良かったし、妻のOKをもらい少しばかり用立てることにした。

 その後、彼女の店は場所も良くないし狭い店だったが、当初は一人でやりくりしながらも固定客がつくようになりだいぶ繁盛していった。貸したお金は彼女の前もっての約束通りきちんと2年で返済された。そして、やがて店を少し広く場所が良いところに移転した。

 それから、彼女はとんとん拍子に飲食事業を広げていき、スナック2店、ラーメン屋2店、焼きとり屋や焼肉屋等々を開店させ女実業家として事業を邁進していった。

 彼女は私と同じ年代で、女性なのに親分肌で金銭的にもしっかりしているので成功しているのだなあと思っていた。

 しかし、20年近く経っただろうか、店を少しずつ閉めていったということを風のうわさに聞いた頃、新しくスナックを開店したという知らせがきた。

 その小さい店で彼女が話したことは、「いろいろと店を広げっていったが、信頼していた部下に裏切られたり、体調を崩したりしているうちにこのスナックだけになってしまった」という内容であった。

 店が1軒だけになったにもかかわらず、彼女には悲壮感はなく「小さくともこういう形で落ち着いて楽になったわ」ともつぶやいていた。

 

 もう一つ忘れられない女性がいる。40年位前になるだろうか、私は仕事が忙しく接待もほとんどしないので入ったことのなかった華やかな今でいうラウンジに知人に誘われ足を踏み入れた。

 その店は客が30人位入れるほどの大きさで、ホステスが十人以上いたかもしれない。料金はそれほどではないのと、愛嬌の良い女性がたくさんいたこと、そしてやり手のオーナーママの采配で大変に繁盛していた。

 そのママは私よりもだいぶ年上だったが、さばさばしておりあまり金のない私の懐具合を察したのかたまに行くと「適正価格」で飲ませてくれた。

 そのうち私はほとんど足を向けるこことがなくなったが、別の場所にもう一つ店を出してそこでも大繁盛しているらしいということを耳にした。

 それから10数年後、製造業のかたわら私が引き受けざるを得なくなり営業していたラーメン店でのこと、店長が「社長を知っているというパートのおばちゃんが来ましたよ。」と私に言ってきた。そのパートの女性はなんとそこのママだったのである。

 彼女は日中の3時間だけアルバイトとして店で雇ったそうだが、毎日朝の6時には市内の病院の賄いをやり、それが済んでからラーメン店に駆け付けるとのことだ。

 彼女に事情を聞いたら、言いづらそうに「店は繁盛していたが、体を壊して休んでいるうちにダメになってしまい、借金でお金もほとんどなくなってしまった」という。

「今は娘と一緒にアパートに住みながらパートで生活を立てている」らしいが、以前の彼女のやる気満々の張り切った顔と、白髪が目立ち疲れのにじみ出たその容貌に当時との落差にショックを受けてしまった。

 数か月ほど働いたが、彼女はその後辞めてしまい消息は分からないが、今健在であれば「傘寿」前後になっているはずである。

 

 また、別のあるスナックのママは数十年前超大繁盛店をやっていたが、その当時に税務署が入り2千万円を超える金額を追徴され、一時はお先真っ暗になったという。それでも気を取り直し追徴金完済を経営目標とし、20年がかりで返済したと豪快に笑っていた。

 「古希」に近い彼女は今も前向きで「健康に一番気を付けているの」と言いながらアルバイトの子と2人で現在も店を営業している。

 

 国分町界隈の「飲み屋」は浮き沈みが激しいが、それでも年に一度か二度私がのぞいてみる店はまだ数軒ある。

 

 私が知っているどの店もママは還暦から傘寿までに分布しており、もう40年前後やっているので一般的にいえば老舗の個人商店ということになるだろう。

 

 こういう店に行くとあと何回行けるかわからないが、いつもこういう「老舗」に行くと思うのは、中小企業にとって経営者の「健康」と「自分の分身」、そして「信用」が大事であると特に実感するのである。