第143回 古典落語人情噺 〜頭の清涼剤に・・・〜

第143回 古典落語人情噺 〜頭の清涼剤に・・・〜

 寄席は好きだが高座では年に数回しか観劇できないので、ラジオ番組を録音して聴いている。その中でもじっくりと聴ける人情噺の落語が好みで、同じ演目でも何人かの落語家がどのように演じるかが興味深く何度も聴くことがある。

 

 落語には「人情噺」、「滑稽噺」、「芝居噺」、「怪談噺」の種類がある。

 

 故桂歌丸師匠は、意外だが「怪談噺」である三遊亭圓朝の代表作「怪談 真景累ヶ淵」の復活を自分のライフワークの一つとしていた。私は知人にこの7枚組のCDを借りて聞いたが、鬼気迫るその語り口は背筋も凍るようで、真夏の暑い夜に聴くには特にお勧めできる。

 

 それでも、やはり後味が一番良いのが人情噺である。

 

 特に私が好きなのは古典落語の「紺屋高尾(こうやたかお)」と「井戸の茶碗」という演目である。両方とも善人ばかり登場する噺で、現実的にはあり得ないかもしれないが、今のような時代には一服の清涼剤になるのでは思う。

 

 「紺屋高尾」とほとんど同じ内容で「幾代餅」という噺もあり、どちらも江戸時代の真面目な職人と花魁のラブストーリーであるが、落ちが少し違うのもなかなかに妙味があり楽しい。

 その簡単なあらすじを紹介するので、興味のある方は是非ご覧になっていただきたい。

 

「紺屋高尾」

 

 「紺屋の染物職人の久蔵は26才になるが、まじめ過ぎるくらいの男、その久蔵が寝込んでしまったので親方が尋ねる。すると、友達と初めて「花魁道中」を見た時に高尾太夫という、今でいえば「クレオパトラか楊貴妃か、はたまた小野小町」というこの世のものとは思えない美人を見てしまった。その時から高尾太夫のことが頭から離れずに、かといって会うことはとても無理、そういう訳で寝込んでしまったという。

 親方はその理由を聞きたまげてしまったが、なんとかその望みを叶えてやろうと「高尾と会うのにはお前の給金の三年分の十両はかかるが、どうするかい?」と言った。久蔵はその話を聞くと俄かに元気になり、それから3年の間一生懸命に働きに働いて十両の大金を貯めることができた。

 しかし、初見の客は相手にしない超格式の高い花魁の高尾太夫、会うのは非常に難しいので親方の知り合いの医者の先生に一芝居打ってもらうことにした。お大尽に仕立てられた久蔵、舞台は私と同じ名前の三浦屋の座敷になる。

 久蔵にとって至福の時が過ぎたあとに高尾太夫が「今度ぬしはいつ来てくんなます?」と定番の言葉を言う。すると久蔵は、本当の自分は染物職人で3年かかり金を貯め、ようやく花魁に会うことができたが、もう2度と来ることはできないだろう、と感極まり涙ながらに話してしまう。

 高尾太夫も久蔵の指先が紺色に染まっているのに気がついていたが、その生真面目さと一途さに胸を打たれたようで、自分は来年の〇月〇日に年季が明けるから、その時女房にしてください、と涙を流して久蔵にしみじみと言ったのだ。

 

 翌年の〇月〇日、はたして高尾太夫は現れるのか、それとも現れないのか、久蔵の運命やいかに・・・」

 

 この結末はYouTubeで名人落語家が、絶妙な落ちで語っているので是非視聴されたい。

 また、「幾代餅」は花魁に思いを寄せる職人の仕事が米屋で、花魁が幾代太夫と配役が少し違うのと、落ちも変わってしまっているのでそれもなかなかに味がある。

 

 この落語を最初に聴いたときに思いだしたのが映画の「ローマの休日」である。知らない人はいないこの名作は、某国の王女様がローマを訪れた時に出会った新聞記者とのちょっとした恋物語、そのストーリーは全く別物だがそのおとぎ話のような展開になにか共通点があるような気がしたのである。

 

 「井戸の茶碗」は屑屋と浪人と武士がメインの登場人物の演目で、善人と頑固者が織りなすハッピーエンドの内容である。聴き終わった後に思わずにんまりとするような落ちなので、この噺もお勧めである。

 

 良いニュースよりも悪いと思われるようなニュースが圧倒的に多いこの頃、たまには聴いた後にほんの少しだけだが頭の清涼剤になる噺を味わってみたらいかがだろうか?