第88回 昭和回想録その8 〜今は無くなった近所の店その2〜

第88回 昭和回想録その8 〜今は無くなった近所の店その2〜

 近所にある薬局店の閉められていたシャッターにガムテープで無造作に紙が貼られていた。

「またか・・」と思ってみるとそれには「閉店のお知らせ」と書いてあり、昨年もその店の向かいの本屋が閉店したことを想いだしてしまった。

 その貼り紙の内容は「(前段略)この小さな町に昭和35年に開店し皆様の温かいご支援をいただきながら60年近く続けることができました。これまで賜りましたご愛顧に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。」とあり、店主の複雑な心境がうかがえた。

 今では近所にあった個人営業の店の9割近くが、いつの間にか無くなってしまいこれでまた昭和の店が減ってしまったので、今回も昭和の時代にあって今はもう無くなった近所の店についての想い出を書き綴ってみた。

 

駄菓子屋「日本一」

 近所の何軒かの駄菓子屋の中で一番近かったのがこの「日本一」という店で、その名前とは反対に日本一地味な駄菓子屋であった。店先にはほとんどいつも誰もいなくて、万引きやり放題の店でないかと子供心に心配をしたものだ。

 店に駄菓子屋に誰もいない時は、必ず「モオーシ!」と大きな声を出して入るようにしていた。「モオーシ」は「申す」のことであるとわかったのは、だいぶ後になってからだ。そう呼びかけると奥から店のおばちゃんが出てきて「なにっしゃ?」といわれ、そこから商談が始まるのだ。

 すごく優しくて物静かなおばちゃんと更に控えめな旦那さんが夫婦でやっているその店はそれなりに繁盛しているようだったが、私が中学校の頃には無くなって今ではアパートになっている。

 

異次元の貸本屋

 家から5分ほどの近くにあった貸本屋の扱っていた本は、現在のブックオフやツタヤやアマゾンのきれいな古本とだいぶ違っていた。それらの本は読まれたというかペイジをめくられ過ぎたというか、表紙は少し角が丸くなり、ペイジの間にシミや食べ物の乾燥したものなどがはさまっていることがあった。

 その貸本は漫画がほとんどで、それ以外の本があったというのはあまり記憶がない。当時は私も小学生で今のように定期刊行の漫画雑誌はほとんどなく、おいてある本は貸本屋向けのオリジナル漫画のようであった。その中には「墓場鬼太郎」という水木しげるの代表作の「ゲゲゲの鬼太郎」の元になる陰惨でおどろおどろしい漫画や、手塚治虫の冒険やSFなどの夢の世界の漫画があり一時期は頻繁に通っていた。

借りる値段は人気やその漫画のペイジ数にもよるが、5円から10円位でないかと記憶している。

 ただその貸本屋の主人は、怪奇漫画の主人公のように青白い顔をして、上半身だけ見える所に座っていて時々私を上目づかいで見ていた。漫画を借りる時もほとんど言葉を発することがなく、貸本屋特有の紙とカビが混じったような匂いの中での空間が妖気漂う異次元の場所のように感じたこともあった。

 

石屋兼こんにゃく屋

 「石」という町名の由来なのか、当時は何軒かあったようで、すぐ近くにあった石屋は職人がほとんど手作業で墓石などを加工していた。

なぜか奥では石とは正反対のやわらかいこんにゃく類を作っており、夏の暑い季節には母親に容器を渡され、ところてんを買いに行かされた。

 ところてんは水槽にはいっており羊羹のような形で、それを店のおばさんが木の四角い入れ物にいれて押し棒でグイッ押すと、先端の格子状の先からニュルニュルと出てくるのを見て、いつも一度でもいいからやってみたいと思っていた。

 

もぐもぐジイさんの果物屋

 当時としては珍しいと思うが、八百屋ではなく果物だけを置いている店があった。奥行きのない店に傾斜をつけて果物を並べており、冬でもガラス戸を開けっ放しで店の奥というか少し高い場所にいつもそのジイさんが座っていた。

 ジイさんといっても、もしかすると私が小学生の頃なのでそんなに年配でもなかったかもしれない。そのジイさんは毛糸の帽子をかぶり群青色の年季の入った前掛けをしていて、入れ歯が合わないのか歯がないのかいつも牛のように口をもぐもぐさせていた。

 秋になると形や大きさが違ういろいろな種類のリンゴを置いていて、店頭で見ていると「このリンゴはうまいぞ、食ってみろ」といってリンゴの皮をむいて、自分もそれを口に入れながら私にも味見をさせてくれた。

 

 私が風邪をひいて熱を出し寝込んだ時に母にむいてもらったリンゴを食べながら、もぐもぐジイさんのことを思い浮かべたが、本音は当時では病気の時にしか食べられなかったバナナが欲しかったのである。