第13回 歳歳年年人不同(さいさいねんねん、ひとおなじからず) ~日々を大事に過ごす訳~

 リオデジャネイロオリンピックが8月21日の閉会式で終了ということで、「宴の後」の言葉どおり連日テレビにかじり付いていたわけでもないのに、熱烈に日本を応援していたわけでもないのに、心の中がうら寂しいというか、少し虚脱感と脱力感がでるのはどういうことだろうか?

 

 マスコミがこれでもかというほど、オリンピックを取り上げているせいもあるだろうし、4年に1度という人生80年でも10数回しかリアルに見聞きできないというせいもあるかもしれない。

 

 あと数回しか自分で見ることができないかもしれないオリンピックは、「人生無常」という唐時代に作られた「歳歳年年人不同」という漢詩に通じるものがあるのではと、私なりに思ってしまう。

 

 オリンピックといえば「史上最大のスポーツの祭典」だが、それでは自分なりにどういうスポーツをやってきたのかと振り返ってみると、まだ三十才代の頃、このままでは近い将来とんでもない体になってしまうのではと危機感を持ち、一念発起してスポーツクラブに入会した。そこでは、テニスや室内球技を皆楽しそうにやっていた。しかし、マシントレーニングやジョギングをしている会員は、歯を食いしばり筑波山のガマのようにあぶら汗を流し、目を吊り上げ修行僧の苦行の様相であった。それを私は横目で見ながら、あんな単調な運動のなにが良くてなにが面白くて、やっているのかといつも思っていた。

 

 ところが、現在はすっかり「筑波山のガマ」となり、大汗を流すことが日常になってしまった。しばらくはラケットボールやスカッシュなどをやっていたのだが、長年やって行くうちにどんどん体が熟成化していき、テニスの伊達公子のようにはいかず、技量の上達よりも対戦相手の若さにも追いつかれ、1時間は平気だったプレーもやがて30分そして15分がやっとになってしまった。そのうちに、マイペースでできるマシントレーニングをやり始め、これだけは絶対にしないと思っていたランニングマシンにもいつかいそしむようになってしまった。

それをやっているとランナーズハイなのかチューハイなのかわからないが、つい頑張ってしまい当初は、2キロ位でも走る?とぐったりとくたびれてしまい、帰宅するとスライム泥状に爆睡してしまう状態であった。

 

 しかし、本当は、今でもランニングマシンに乗る時に「今日はやめるか・・」などと不届きな考えがよぎり、10分ほど始めて「疲れたからもうやめよっ」とかいつも怠惰な考えが頭をもたげる。それほど運動することが好きではなかったのだが、今では軽いジョギング、筋トレ、最後にプールでウォーキングを定期的にこなすようになった。

 

 そして、ここで様々な人と出会う余得もある。経営者やOB、大学の教授、歯科医、マジシャン、外人、おじさん、おばさん、学生等々。会社環境だけでは、決して知り合う機会のない方とのちょっとした言葉の掛け合いなども気分転換になる。

 

 このジムには30年以上かよっているが、体調を崩したり寄る年波で見かけなくなった方など自分も含め年月の経過は否が応でも影響してくる。

 

 オリンピックで活躍する選手も4年毎ということで、その経時変化の影響が顕著にわかってしまい、人というのは本当に旬というのは短い、だから一日一日を大事に過ごさなければならないと思うオリンピック観戦であった。

 

年年歳歳花相似 ねんねんさいさい、はなあいにたり

歳歳年年人不同 さいさいねんねん、ひとおなじからず

来る年も来る年も花は同じ姿で咲いている。

しかし、それを愛でる人は毎年毎年同じ姿ではいられない。