第10回 マチュピチュ村見聞録 〜マチュピチュ温泉体験の記〜

 今月に長年の夢だった「マチュピチュ」に行ってきました。世界遺産ナンバーワンのマチュピチュ遺跡については、数限りないガイドブックや解説書があるので、今回はその麓にあるマチュピチュ村について滞在中に見聞き体験したことを紹介します。

 

 マチュピチュ村の初代村長が日本人であるとは、旅行社の添乗員も、同行したツアー客の誰も知りませんでした。私は今年の初めに「マチュピチュ村の世界はじめての友好都市として福島県安達郡の大玉村が選ばれた。同村出身の故野内与吉氏が初代村長であったという縁によるもの。」という新聞記事で知りました。

 

 マチュピチュ村へは、ペルーの首都リマから飛行機でクスコまで1時間、バスに乗り換え2時間、列車に乗り換え村へは1時間半という待機時間もいれればほぼ1日がかりである。マチュピチュ遺跡へはこの村からさらに崖スレスレの道を30分ほど登った標高2500メートルの場所にある。マチュピチュ村、以前はアグアス・カリエンテス(熱い水)という地名で、川沿いにあった小さな集落であったという。地名の由来のとおり温泉が湧き出るので有名で、ガイド本には、「是非とも入浴して旅の疲れを癒してほしい」と載っていたので、温泉好きな私は「地球の反対側の温泉に絶対にはいるぞ!!」と他の客がほとんど行ったインカの門へ行くツアーをキャンセルし、温泉に入ろうと意気込んでいた。

 

 村の景色がなんとなく山形の銀山温泉に似ていることもあり、期待感満々であった。マチュピチュ遺跡を縦横無尽に登ったり下りたりして歩き廻りくたびれたこともあって、早く自分の体を癒したいとホテルを出て坂道を10分位歩いていくと、途中の店では水着やタオルを売る店が立ち並び、ちょっとしたリゾート気分が盛り上がってくる。この村では、昔の日本のように放し飼いの雑種の犬が坂道をあっちこっちで走り回り、その数はやたらと多かったが徒党を組むというか秩序だっているようで、危ない感はほとんどなかった。

 

 やがて掘っ建て小屋風の入浴のチケット売り場、古い銅像のような色をしたおじいさんに入場料を5ドル支払い(少しぼられたようだ)、それでも「このくらいの料金であれば良い風呂じゃろう」と甘い考えで温泉場に向かう。

 

 しかし、歩いても歩いてもなかなかたどり着かず、結局又10分位川沿いの道を行き、きつい坂道や橋を渡り途中には息切れして休憩所の椅子に座ったりしてようやくたどり着く。ようやくみえた風呂はコンクリートのタイルの中に真四角のプール状の湯船?が5つぐらい並んでいる。スルメのようなクサヤのような匂いのするトイレのそばの着替え所で海パンに着替え、有料の荷物置き場に1ソル約30円で衣服を預ける。

 

 ざらざらごつごつしたコンクリートの上を足が痛いのを我慢して、湯船もどきに向かうが、シャワーがなくこの汗まみれで塩も少しふいてきた自分の体を流さねばと思うのだが、見つからない。あたりを見ると外国人たちは(本当は私が外国人なのだが)そんなことは意に介さずそのままトプリと入っている。それではと仕方なく湯に体をひたしていく、が、その湯はなんと透明感が全くなくグレー色に淀んでおり、なにやら洗濯物をつけておいたような臭気がただよい、温度も35℃以下のぬる湯である。深さは1.1メートル位で立ったまま入るのだが、なぜか底は少し粗い砂になっており、足で掘ってみたがだいぶ堆積しているようで底には届かない。

 

 入浴している客は多く、水着も付けているので男女混浴で友人通しでゆったりとインカソーダーを飲んだり、子供たちが潜ってバシャバシャとふざけあったり、お互い肩に手を廻し見つめあうカップルもいたりする。私たちはその飛沫が飛んできて目に入ったら血膜炎になるのでは、口に入ったらO―157で腹が下るのではなどとひたすらしぶきを避けることに専念してしまった。

 

 日本人は私たち夫婦だけで、あとは全員濃い顔の人たちだけであった。隣にいる40代の男は私のそばでじいっとして動かず私の方を時々ちらりと見るので、私に関心でもあるのかとドキドキしていたのだが、時計をしていたので時間を聞いてきただけだった。

 

 一段と低い別な湯船に行くとさらに臭いも濃密さを増し湯の温度も下がってきたので、小半時ほどであがることにした。その時にようやくローカルの客たちがキャーキャー騒いでいる場所があったので、そこに行ってみると湯が40℃位で出る打たせ湯があり、彼らにとってはその温度でも熱いということでほとんどの人がそこを使わなかったようだ。

 

 そうそうに「癒しの湯」を退散し、ホテルの部屋でもう一度シャワーを浴びたのは言うまでもない。

 

 この温泉も前述の野内与吉氏が、開発しており、氏の功績は村までの鉄道建設や水力発電、ホテル建設と郵便局や裁判所など多岐にわたっている。

 

 1917年、21歳の時に契約移民としてペルーに渡り、1968年に51年ぶりに故郷の大玉村に帰り、その時に親戚が日本にとどまってはと言うのを「家族や子供が待っている」ということでペルーに戻り、翌年74年間の波乱万丈の生涯を閉じたという。