第8回 中国、人間模様 ~観光では絶対に会えない人々~

 最近は東シナ海や南シナ海の問題もあり、「中国」というと何かと我々は悪感情を持ってしまいますが、以前に知人で日本に帰化した中国人のR氏と山西省に行ったときに中国人と会う機会が多くあり、やはり国家と個人は別物という感を持ちました。

 

 北京の西方にある山西省の省都である太原(タイゲン)を中心に1週間ほど廻って、帰国までに会った中国人は延べ50人近くになり、外国に行って日本人とは一言も話しする機会がなかったのも珍しいことでした。

 

 まず初めに会って驚いたのは、仙台空港からの乗り継ぎのあとに乗った上海北京間のフライトの中で郭という30才代の女性と席を隣になり話しかけられたことでした。彼女は物流会社を夫と上海で経営して総経理をやっており、業務が爆発的に拡大しているということで知的な中に業務に対する意欲が満々の方でいかにも中国人若手のやり手という風であった。

 

 太原市ではR氏の親族たち20人ほどとお会いしたのだが、その中でも日本語を片言に話しする方も数名おり、役所関係の方が多かった。その中でR氏の姪の婿にあたるというA氏のお宅にお邪魔した。彼はまだ30代だが地元の食品衛生局長をしており、絶大な権限を有しているらしく応接室では柔和な顔の中に自信をのぞかせていた。その夫婦には高校一年生の息子が一人いるというが、毎日学校で補習事業があり夜の九時に迎えに行くのが日課だという。日本以上の学歴社会を想像させ、さすが大学で学力世界の上位になったお国事情と思ったものである。

 

 R氏の兄のB氏は役所の車両の管理者ということもあり、おかげで延べ一日半に渡り市役所の車を無料で乗せてもらうことができた。太原市から2時間ほどかかる世界遺産に匹敵する1400年以上前の「楡次ユジ老城」という広大な古い町並みの中をフリーパスで案内されたりもした。

中国では役人の力はやはり大きく、混雑しても車は制限スピードや規則にかまわず石炭を30トンも積んだトラックをブイブイ追い越していくので、青くなりながらもVIPにでもなったような気分になってしまった。

 

 もう一人の弟もやはり役所に勤めており、当地では役所によってボーナスが全く異なっており、中には一回のそれが十倍出たりする部署もあるらしいという。つまり、役所であっても日本と違って実績を上げただけ、儲けだけの見返りがあるらしい。銀行や金融機関は昔の日本のバブルのように札束が立つくらいもらえる時もあり、親は子息がそういう有利なところに入れるように個人的にいろいろと働きかけるようである。 

 太原市の山西大学は中国における最初に創立された三つの大学のひとつで、学生が一万三千人、教授を含む教員が千二百人という名門大学とのことだが、縁があってそこの日本語学の孫教授に「うちの生徒にせっかくだから生の日本語で授業をしてもらえないか」ということになった。結局ことわざを解説することになったわけだが、知らない諺もあり三十分ほど話したがだいぶ脚色したこともあり冷や汗ものであった。二十人程の学生の身なりは日本人と同じだが、大変真面目で好感の持てる生徒たちだった。歴史のある構内も案内していただき改めて日本の学生ガンバレの感を抱いた。孫教授の奥方も他の大学に勤務してその大学では副学長をしているという。

 

 孫氏はアルコールが大変好きで、その晩に地元のパイチューという六十度の酒の四合瓶をストレートで飲んでいたのには驚いた。R氏が下戸ということで私もお付き合いして半分ほど飲んだので、私の日本語がろれつ化し徐々に中国語化していったのは言うまでもない。

 

 北京ではYMCAの理事長をやっている夫妻と会い北京事情をいろいろと訊いた。詳細は省くがYMCAは中国では日本と違い営利団体として活動しており、夫妻も高級車に乗ってきたほどである。

他に会った方で印象深かったのは、天安門事件の当事者であったが今は超インテリドライバーであるC氏で、本来彼は大学の教授だったらしいが、今は北京の白タクのドンをやっている。

 

 又、天津市南開大学の薬学博士であるD教授という方と知り合いになったりもした。北京で初のチーズケーキの店に挑んだE嬢、この方は日本人と結婚しており、事業意欲はあったが挫折したという。今は仙台で家族ぐるみの付き合いをしている。

 

 多々書ききれない中国の人との出会いだったが、その中で得るものは多く、概して彼らはチャレンジ精神とその行動力と自信は今の日本人に大いに必要なものであり、批判はあるにしても、見習うことが多いのも事実であった。